紛い物

 私に声を掛けた男は、黒一式のジャケットとスキニーパンツ、そうしてごった煮の装飾を纏い、口元の筋を歪めた。色らしい色を目に宿さず、機械的な眼球がてらてらと視界を舐めている。ロボットがもう少し人間に近付こうとすれば、このような姿を手に入れることが出来るだろうと思った。擬態的な意思で動くようなそれを少々億劫に思ったが、私は彼の家に行くことを思い、いつもそうするように、期待を漲らせようと尽力した。
 彼が私に連絡先を要求するのに応じ、そうして私は今から彼の家に行くことを要求した。彼は最初、私がなにを言ったのかを呑み込めない素振りを見せ、瞬間的に戸惑いつつも、殴られた際に上げる悲鳴のような歓声を出し、私の肩を抱いて歩き出した。
 消えかけたような細い三日月は立ち並ぶビルの狭間で肩身狭く鎮座している。人波は個々の存在を奪い、心を、街灯や窓明りやネオンなどの光という光に逃避させて、ただ肉と布の海を形成させている。すっと手を出してしまえばすべてが私のものになると錯覚しそうになり高揚を覚えるが、私もまた一つの波に過ぎないことを思うとどうしようもなく冷める。
 男は多分、趣味であったり年齢であったり様々なことを喋ったが、どのような内容だったか私には記憶になかった。ただ、無職であるということと、青色が好きであるということだけが脳に残った。青色は良いねと私は言っていた。それと彼のよく上下する唇は見る値打ちを感じなかったが、真っ直ぐに閉じている間には、暗い血色をした二枚の板を美しく思った。
 駅に辿り着き、電車に乗り、降りて、少し歩くと小さなアパートを男が指した。部屋は床の踏み所がないほどに、物が散らかっていて汚なかった。歩く度に無機質でありながら柔らかい感触が足裏に伝わり、笑っているような音を立てた。剥き出しのゴミ袋にはコンドームと紅く染まった紙が散見されたが、特に気にはしなかった。私は髪をかき上げて、真っ白な天井を見上げた。中央には丸い円の電灯が光を放っている。
 部屋が熱気に満ちていたからか、男は窓を開けようとした。私は彼の腕を掴んでそれを制止する。不審が半分と、欲望が半分とを蓄えた表情に対して私は言う。
「脚立のようなものはある?」
「……あ?」
 よく聞こえなかった、と言いたそうな顔、異国の言語を耳にしたような顔をしている。
「脚立とか、天井に手が届きそうなもの。……ああ、そこの椅子で良いわ。使って良い?」
 私は座面に衣服が連なり、力無く垂れた袖に覆われる椅子を指した。
「なにしてんだ?」
 衣服をまとめて部屋の隅に追いやり、自分の鞄からは、青い塗料と、ペンキのような幅の広い筆を取り出した。
「おい」
「少し待っていて。その後は、良いことしてあげる……」
 そう言うと、男は笑った。
 私は椅子に立って青を天井に塗りたくった。一面が塗り終わると床のゴミをどかしながら椅子を動かし、天井全体に青を広げようと勤めた。手がぎりぎり届くくらいで、ずっと伸ばしていなければならず疲れはするが、気持ちよさが打ち勝ってその動作は滞ることがなかった。塗り進むにつれて快感が身体を貫いていった。男には見向きもしなかったが、私を奇妙な顔で眺めながらも、提示された報酬を反芻している中で、揺れ動いているのかもしれなかった。見たところでどんな顔をしていようがどうでも良かったから、私の想像で事足りた。
 そうして隅まで塗り終わった。空よりも狭い青に太陽よりも大きな円がへばりついていた。その様に私は心から満足した。
「なんの」
と、声が聞こえた。振り向くと男がいた。そういえばここの主だった。
「なんの演出だよ?これは……おい。意味が分からんが、もういいだろ?こっちに来いよ」
 男が私を掴んで無理矢理に引き寄せる。手付きが雑だった。眼前に、男の顔がある。
「剥がれてる」
 私はつい口走った。
「なんだと?」
 壊れたオモチャみたいだ、と思ったのだ。だって、ありきたりの欲望と単純な高揚で無機質に覆われていた眼球に、僅かにダークブルーな怯えが混じっている。まったく機械的ではない、極めて人間らしい色だった。私を異常者だと感じ始めている色。本当は今すぐにでも突き飛ばしたい嫌悪感。だが男自身はそれに気づきもしないというジョーク。先ほどの機械的な眼とのギャップも相まって、肩が細かに震えだしている。すぐにそれは我慢がならなくなり、私の口からはくっ、くっ、くっ、という笑みが、不規則に漏れだしていた。
「ふざけてんじゃねぇぞ」


「なんだよ、お前」
 男の髪にはいつのまにか、青い塗料が微量に付いていた。
「空を……」
「……は?」
 髪の隙間から、青が彼の頭に侵入していく様を連想していた。皮膚に分け入り、肉に沈み、頭蓋骨の隙間を撫でていく。
「……昔から、空を手に入れたいような気持ちを覚えていた。でもそんなことは不可能でしょう。空は誰のものでもない。それが私には許せなかった。だから私には紛い物の空が必要だった。自分の部屋では駄目なの。目覚めるたびに目にしてしまうから。生活の中にあり続けてしまうから。きっといつか飽きる。それもまた許せないことね。だから他人の部屋が良い。誰でも関係がない」
 男は青ざめている。私はごみ袋のコンドームと暗い紅を指して言った。
「貴方はこういうの、向いているか怪しいね。もっともっと他人を物として考えないといけない。人間のあらゆる面を削ぎ落として、純粋な肉塊として扱うことの出来る機械にならなければならない」
「もう、良い。良い。出ていけ」
 電波野郎、と男は私の肩を掴み外に追いやる。
 見上げるとそこには、世界の天井が広がっている。
 あの広大な空と視覚的に小さな星には自分の手が届かないことを見せつけられると、やはり冷めたような心持ちになる。
 男は放るように私の肩を押して部屋の中へと去っていった。最後に見た唇は変わること無く美しく見えた。