葬送

 月に照らされた淡い雲を纏う野山の、その中にある潜むような集落の中で村人たちは、酒を飲み、歌を歌い、踊りを舞っていた。

 そのような人々の間を、一人の少年が走っていく。時折行き交う人々が少年に声を掛け、少年もまた声を返していく。しかしその声の中に包まれた言葉は、英語ではなく、アラビア語でもなく、当然ながら日本語でもなかったし、それらの、またその他のあらゆる言語によって翻訳されたことは一度も無い。

 だから彼らは未だ、世界に発見されてはいなかった。彼らの言語は彼らだけのものであり、彼らの中で流れる血は彼らだけのものだった。模様の残る煤けた獣の皮を身に付け、肌はより濃い黒を現して、その分だけ鮮やかな緋色の眼がよく目立った。

 走る少年の視野に篝火が現れ、それが後方に遠ざかったと思えばまた奥の方から篝火が現れる。村中を明るく照らすように、何処までもそれは続いていく。彼らは火という言葉を一纏まりの単語として用いない。時と場合に応じて無数に呼称を変えていく。例えば土鍋の下で食物を煮る火。または屈強な獣を怯えさせ遠ざける火。あるいは傷の消毒を助ける火。彼らにとって揺らめく炎は、必要な時にだけ利用する化学作用のようなものでは決してなく、個的な生命たちのような、そうしてそれはいつでも傍にいるような、傍にいて、自分たちに力を貸してくれるような、偉大な精霊のようなものだった。

 少年は走り続けた。狩りの疲れに誘われて馴染み深い土の上に微睡み、定刻まで幾分もなかったのだった。少年の向かう場所には既に人々が集まっている。今日は鎮魂祭の日となるからだ。三度の満月が訪れる度、その間に死した者たちを弔う祀り。死者に意気揚々とした宴を見せて楽しませ、心配は何も要らないのだと、また、この命たちは貴方が守ってきた誇りなのだと語り、そうして遺族は天上までの道筋を見守るのだ。その火葬は特殊な手法に依っていて、遺族の描く彼らの生きていた姿を保ち、葬る際にも決して死者を穢さない。それは村の重鎮たちに代々継がれている魔法的な技術であり、正しい形によって聖なる炎に包まれた死者たちは、迷いなく天上へ行けるとされていた。

 村人たちは少年の場所を空けてくれていて、彼は待ちくたびれていた母と兄弟との間に、ゆっくりとした動きで腰を降ろす。人々の中心には八人の人間が薪の上で胡座をかいているように見えた。

 少年の目の前には、父が座っている。

 今にも緋色の眼を開けて、快活に笑ってくれそうだ。日々の狩りによって鍛え上げられた肉体も、生きているのと変わらないように見えた。少年に触れた手や大地を踏みしめる強き脚は彼が彼であることの証だった。

 皆が揃ったのを確認し、族長が祈りの言葉を捧げ、そうして手にもった松明の火を薪に移した。火は緩やかに大きさを増してベールのように死者たちを包み込み、彼らは人間の形をした夜に似た穏やかな黒になっていく。

 少年はむしろその隠された形に駆り立てられるように、火の向こうにいる父との思い出を想起するのだった。様々な動物や森や川のことを教えてくれ、誰にも教えていない穴場の釣り場を教えてくれた。少年が村の子供に意地悪をした時には叱り、大きな子供と喧嘩をして負けた時にはあんな相手とよく闘ったなと頭を撫でてくれた。身体の動かし方を教えてくれ、狩りの練習でなかなか上手くいかない時には辛抱強く付き合い、上手くいった時には自分のことのように喜んでくれた。

 少年の緋色の眼は火の色に照らされて二つの赤が混じり合い、調和しているようなひとつの美しい色彩だった。頬には水の跡が出来ていて、涙の粒は既に幾度もその線を流れていた。だが少年はそのことに気付いてはいなかった。彼はものごころついてから泣くことを知らなかった。少年の母が布でそっと彼の顔を拭ってやった。彼の自分が泣いていることに気付いたのはその時だった。その気付きがむしろ彼の美しい瞳を瞑らせ、それなのに涙が溢れて止まらなくなったが、父を見届けなければならないのだという思いに駆られて目の前を見据えようと努めた。

 揺らめきながら燃え上がる火のベールに映る父の影は細くなり始めた。火の葬送が終わりを迎えた時、黒の肌の内部で彼の生を支えた白妙の骨だけが残るだろう。その骨を少年は御守りとし、己の生を全うするだろう。

 村も、家族も、少年も。父が守り慈しんだものを、父という人間の生の証を、この世界に刻み続けるために。