語らない男

 幼い頃、母の墓参りをした日の夜に、こんな夢を見た。私は家のがたつきの悪い戸をガラと開いた。

「ととん、ととん、魚が釣れたで」

そう声を上げた。が、家の中には誰もいなかった。探しても父はおらず、入ることを禁止されている仕事部屋にいるのかもしれないと私は推測した。しかし、時は夕刻。父は空が朱い時には仕事をしない男だった。しかし、他に当てもなく、戸の入り口に魚と竿とを置いて、私はその部屋へそっと足を運んだ。そこで私は目を疑った。父の作品たちが場所を譲るように、隅に退いていた。そうしてその中心で、土の神が這い出たような、巨大で底の見えない洞穴が私を見詰めていたのだ。入り口の斜面は誘うように緩い。不思議と吸い込まれる穴だった。この先に、親がいるのかもしれないと私は思った。そうして足を滑らせたりしないように用心して、慎重に、穴の中へと入っていった。

 最初は斜めに傾いていた地面が、奥へ進むにつれ段々とまっすぐに均衡していき、苦もなく歩を進めることが出来るようになっていった。穴の中は黒に覆われて、なにも見えないものだと思っていた。が、中へ入り込んでいくと段々、周囲に淡い緑が輝きを放っていくようになった。ごうらな岩の天井を緑光が辿っていく景色は、神秘的という他はない。外の空は朱く、それもまた感動的な美しさに溢れていたが、それは太陽という外側の力によって成された光だった。それに対し、この緑光には光源がない。光が光そのものであるように、何者にも依ることがない。その意味でこの緑は、外の朱と対照を成すものだった。私はその孤高の光に包まれながらも奥へ奥へと歩いていく。景色はしばらく変わらなかったが、私には不安も、また高揚もなかった。ただ不思議な安らかさがそこにあった。そうしてずっと歩いていくと、やがて遠くに、なにかが点となって見えてきた。近付くにつれ、それはより詳細な形を形成していく。それは人に見えた。父はここにいたのだ。「ととん!ととん!」と声を張りながら私は人影に駆け寄った。そうして私は、その人影の顔を捉えた時、頭で考えるよりも先に「かかん」と口から言葉が零れた。人影は父ではなかった。そこには亡くなったはずの母が立っていたのだ。次には眼から涙が零れた。「かかん!」と今度はより確信を持って叫び、母に抱き着いた。しかし、その感触は硬い。私は不自然に思って母を見上げた。母は動くことがなかった。再び母の身体に触れる。よく見るとそれには色味がなく、無彩色の表面に緑光を取り込むばかりだった。そうして、どこか暖かみを帯びながらもやはり硬い感触を感じ、私は、その母が石で出来た彫刻である、ということをようやく理解した。気が付くと、母の横には父がいた。私は驚いて声を上げた。父がやや眉を上げ、それは彫刻ではなく、本物の父であるということを認識させた。

「おとん、なにしとんの?」

「俺は……こいつを、創っとった」

「かかんを……」

「あぁ……」

その父の顔つきは、私がこれまで見た彼の中で、最も穏やかさに満ちていた。私はこれまでにそのような父の顔を見たことが、一度もなかった。私はしばらく何も言わずに母をじっと眺め、そして母の手を握った。石であることはまるで関係がないように、とめどないあたたかさが、私の心に伝わっていった。私はここで親子三人で手を繋いでみたい、という衝動に駆られた。私は父に手を差し出して──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥が鳴く。簾から微かに日が漏れる。幼い私は目覚め、そうして先ほどまでの景色がすべて、夢の世界であったことを悟り、落胆した。私は布団から這い出て居間へと向かう。父も既に起きていた。私にはまだ読めない、難解な漢字の並んだ書物を開けていた。「はよう、ととん」と私が言うと「おう」とだけ返した。父は寡黙で、表情を動かすことがない男だった。私が軽い朝食を作り、食卓に並べると、父は栞を挟んで書物を閉じ、黙々と食事をした。食事の間、私はあの夢のことを話そうか悩んでいた。が、食事を終え、父が仕事部屋へ向かおうとした時に、口をついて言葉が出た。

「おれも、仕事部屋に連れてってぇや」

「……なんでや。いつも入んな言うとるやろ。仕事の、邪魔や」

「仕事場に、穴開いとるかもしれんねん……」

「穴やと?」

父は突飛なことを話す私をじっと見詰めた。それでも表情を崩さず、顔の裏にある感情は読み取れない。私は捲し立てた。

「仕事場にでかい洞穴が開いとったんや。そういう夢を視たんや。夢の中にはかかんがおったんや、ととんが彫刻で創ったかかんがおったねん、なあ、仕事場に入らせてぇや、かかんがおるかもしれんや」

父は私の話に対しても、やはり表情を動かしはしなかった。父と私の間に少しの沈黙が生まれ、そうして一言。

「かかんはあそこにはおらへん」

と、そう言うだけだった。私はなお食い下がったが、父は「寝れてないんや。お前に構う体力が、ない」と言って、仕事部屋へと去っていってしまった。私はやるせのない気持ちでそのまま佇んでいたが、村の子どもたちと遊ぶ約束があったので、支度をして外へ出た。

陽光を遮ることのない心地良い空だった。約束の時間までにはまだ間があったので、私は改めて母の墓に行こうかと考えた。昨日の夢の話を母にしてやりたくなったのだ。私は墓場へ向かい、たどり着くと、無彩色の墓標が並んだ中から母の墓を見つけ出す。しかし、母の墓は、昨日とは一点、違う所があった。墓前に何かが置かれていたのだ。それはひとの形をした、小さな石像だった。形が荒く、とても急いで創られたかのようだったが、それは確かに女性で、私はそれを母であると直感した。私は母の小さな手を握った。そこには石でありながらどこかあたたかい、あの感触が確かに感じられ、そのうちに、私の頬をしずくがつたった。私は父を想った。私の頬を何度も何度もとどまることを知らないように、しずくがつたっていった。