INTPの桃太郎…らしい。

 日が暮れる前に芝刈りへ行かなければならなかったが、自分がどこから来たのか、この世界は何なのか、という問いが頭の中で流れ続け巡り巡って時間を巻き取り続けていた。ばあさんもまた、彼女なりの思索に囚われているのだろう、家から出てくる様子はない。そうして夜のとばりは下りていき、こうなることを見越し以前貯めておいたもので火を起こすことにした。

 結局芝刈りへ行こうと決めたのは数日後だった。予備のものがなくなって生命の危機を覚え始めたために、動かざるを得なかったからだ。入れ違いで帰ってきたおばあさんは大きな桃を抱えている。「成功か?」という問うが咄嗟に出ていた。「まだ待って」と彼女は返し戻っていった。私も歩き始めた。いくらでも待てると思った。道を間違えないよう注意を凝らしながら歩き続け、いつもの場所に辿り着き良いものを目に付け、緑に安らぎながらどちらかというと無作為に刈り込んで、そのうちに身体動作のリズムが出来上がり思考は現実から独立して宙を舞い始める。舞踏のひとつがあの大きな桃を想起した。気付くのが遅れたが、なぜ大きな桃というチョイスなのか、意味が分からなかった。だが彼女の思考の領域は僕の興味の向くところではなく、桃が重要な鍵を握っているのかもしれないと思い直そうとして再び意味の分からなさにぶつかることを幾度も反復し、意識が現実へ戻る頃には十分な量を採取していた。本当に意味が分からないと思った。

 藁葺きの家に帰り、ばあさんへ桃について質問すると「鮮やかなピンク色をしてるだろ?赤に近づこうとしているほどに。それにほぅら、形が美しい。逆さにすると尚更さ」と予想通り大した答えは帰ってこない。もっとも彼女のほとんど外国語のような知的体系の話をされても困るのだが。火が欲しいというのでさっそく刈ってきたものを燃やすと、それに照らされた桃はいよいよ持って深紅に深まり、驚いたことにその中から赤ん坊の鳴き声がし始めた。紅い桃は溶けて縮小していき、やがて鳴き声の正体であるごく平凡な赤ん坊が姿を現した。ばあさんはサンプル名のようにその子に桃太郎という名前を与える。この子が私の、望みとも呼べない望みらしいなにかを叶えるのだろうか……。

 

 

 

 記憶は無いが、人間は鬼に殲滅されたらしい。そして私はかつて誰しもが持っていた「こころ」というものを失ったようだった。「こころ」というものだけはなぜゆえか覚えていた。そのおかげで私は四六時中「こころ」なるものについて、あるいはそれに連なる世界について、考えないわけには行かなくなっていた。もう一人の生き残りであるばあさんは「貴方にも私にもそれは備わっている」と言ってくれたが、やはり分からなかった。同じように鬼に追い詰められたばあさんにもやはり心はないのではと、そういう疑念を払拭出来なかったからだ。そうしてばあさんは提案したのだ。「新しい人間が生まれれば、心があることが分かるだろう」と。

 

 

 

 今日、ばあさんが死んでいた。昨日かもしれないが、私には分からない。寝床に横たわる遺体の傍らには桃太郎と、もう一人赤ん坊がいた。ばあさんが死の間際に作ってくれたのかもしれない。死に極めて近い人間は命の根源との距離が小さくなると言っていたことがあった。もう一人の子は女性のようであり、ばあさんの生まれ変わりなどといった空想が頭をよぎった。墓を作り、体温の残る遺体を埋め、意味があるかも分からない祈りを捧げ、その日から私は二人を育てることに生活を割いた。

 苦労はしなかった。ばあさんは老い先の短い私のことを考えたのか、赤ん坊たちは異常な速度で成長を遂げ子までをもうけた。どんどん世代を重ね、小さな村が出来ていった。彼らはよく笑い、よく泣き、よく怒り、私を含め衣食住に気を配り互いを大切にした。猿や犬や雉たち森の動物も彼らを信頼し、協力関係を築いていったようだった。それを見てもやはり私には「こころ」というものが理解出来なかったのだが。

 彼らはやがて鬼の存在に気付いた。私が鬼の話をすると、彼らは大きな動作を伴って怒り、悲しみの涙を流したようだった。そして鬼を絶対に殺すべきだという緊迫した空気が村中に広がった。正直全然、ついていけなかった。意味が分からなかったからだ。尋常じゃない速度感で武器の生産や戦闘訓練が行われていった。森の動物たちの情報網から近場にある鬼の集落が把握され、酒の祭りがあることが分かり、その日を狙って見つかりにくい場所から攻撃を仕掛ける奇襲作戦が立てられていった。そして彼らは私にも戦いの同行を頼んだ。「僕たちを作ってくれた貴方に鬼に打ち勝つ勇姿を見て欲しいんです」。私は彼らが「こころ」を持っているか、その観察がしたかったので同意した。

 木々の茂る隠れやすい場所に集団を張り付かせ、夕日の沈みかかる暗い空の下で、鬼たちが酒を飲みながら話を弾ませているところを襲撃した。奇襲は成功し、あちらも攻撃体制を取り、鬼の集落は混沌を極める有り様になっていった。

 そこで私が見てとったのは非常に奇妙な光景だった。桃太郎たちは鬼を殺して喜び、仲間が死ぬと怒りと涙を顕にした。そしてそれは、鬼たちもまるで変わらなかった。変わるのは見た目による微妙な違いに過ぎなかった。笑いの端にあるのは巨大な牙であり、流れる涙は赤や青の肌を伝って零れていった。私にとっては、これはにんげんと鬼の戦いであり、私に「こころ」をりかいさせるかもしれない者と私のこころをうばったもののたたかいであると思っていた。いまは、おにも人もそう変わらないきがした。むらのおには皆死んだ。ぼくはいぜんとしてなにも分からなかった。なにもかんじなかった。なにもなかったとおもった。

 

 

 

 

 

 おにとももたろうのたたかいはとんでもないことなっていていきたくないむらのひとたちはめとはなとくちがなくてことばがよくわからないちかづいてくるのいやでしかいがよくにじんだしそれがいやだしきがへんなかたちにまがったりおにでもひとでもないこわいのがぼくやひとをみてたたいようがまぶしくてそとにでられなくてくるしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近、記憶がない日が多い。体調も優れなかった。しばらく家からも出ていないし、人間ともあまり会っていない。鬼とにんげんの観察をしに行くことも出来やしない。おそらく老かがすすんでいるのだろう。ばあさんがこんなことをいっていたことがある。「心は例え死のうが決して消えるものではないし、それはただ抑圧されてるだけであって目の前にあるのだから。目の前にあるのに無い無いなんて探すのは狂人の所業だよ、仕方がないので正常になる手伝いをしてあげる」

 私がきょうじんで、鬼と人間がせいじょうだから、わたしだけにこころが分からないのだろうか?それとも彼らとわたしのこころが違うのだろうか?分からない。もう先のないわたしにこのような問い掛けにさほど意味があるとは考えにくい。

 それよりも、それよりも心が決して消えないものであるのなら、私のような存在に出来ることがあるのではないだろうか。いつか人間でも鬼でもないと感じる者が生まれたならば、その存在は私の中に心を見出だせるかもしれない。あるいはまたその存在が心を失っていれば、私のことがなにか己の手がかりになるかもしれない。

 今、私はそのための手記を書いている。書けない日も多いから、書ける時に書かなければならない。家の外で大きな音が鳴った。鬼が村に攻め込んできたのだろう。彼らの戦いは今のところ拮抗している。が、そんなことは私には関係がなかった。強いていうならば静かにしてもらいたいと思った。今私が書いているものが、私にとってか誰かにとってか分からないが、宝物になるかもしれないから。