神について語る

 僕らはどこから来たのか?という問いに対し、今の僕は「最初に世界を形作るきっかけとなったが、それ以降では世界に目に見えるような影響を与えず」「特定の人格を持たず」「(今の)人間には理解が及ばない」ものから世界が始まったのだと思っている。それは例えるならギリシャ神話におけるカオスでありクトゥルフ神話におけるアザトースでありヌーソロジー(については見聞が浅いが)におけるシリウスのようなものが近い。なのでそれは人格を持たない汎神論的なものに似ていると思う。

汎神論には自然法則、世界そのものが神であるという考えとまず神がいて、すべてのものに神が内在しているという考えがある。が、これはどちらも間違っている気がする。自然法則が最初は存在せず、(つまり、物質が先行し、自然法則が後から付随してきたものであるという仮定)神が過去にはいたが今はもういないという考え方を僕は思案しているからだ。(自然法則という世界の総和が神であるという考え方では過去の奥底にいる神が存在できなくなる)

それはカオスやアザトースやシリウスのような観測しがたい存在が物質の産まれる空間を生成し、そこに素粒子(ないしは人間がまだ観測しえない素粒子以上に最小な存在)が産まれ始め、その物質同士の成り立ちが自然法則を創ったこと。(自然法則が生まれるとは、例えばAさんとBさんが出会ったとする。彼らはお互いに相手がどのような人間か分からなかったのだが、会話するうちにどのように振る舞っていくのかが定着してくる。このように、なんの関係もなかったものが接触し合うことによって、それまでは存在しなかった振る舞い・動きをつくりだすことがそれまでは存在しなかった法則というものをつくりだすということだと思う。水素は酸素と出会うまでは自分たちが水になることを知らないということ)

そうして産まれた物質が観測しがたいものたちにも影響を与えているということ。アザトースは人間の芸術家を求め、シリウスは(多分)自分のステージまで人間が上がってくることを望んでいるのだから。これは彼らが僕たちの世界に僅かながらも引っ張られているということであり、彼らと僕らは影響を与えあっているということだ。彼らは僕らがまったく触れえない神のような存在ではなくなっている。「ない」のではなく「なくなっている」のだ。最初は彼らは唯一無二の存在だったが、僕らが生まれた時点で彼らと僕らとがお互いに引力を持つかのように引っ張りあい、お互いに影響を与えあい、より近しい存在になっているのだと思う。だから彼らは既に唯一無二の神という立場からは離れているし僕らは彼らを僕らの場所まで引きずり落とすことが可能だろう(こちらは邪道であり、ヌーソロジーにおけるスマルにあたるように感じる)。そうして僕らが彼らの領域に近づくことも可能だろう(こちらが正道だ。が、それが正しい道とは限らない。結局正しい道とは自らの精神が選びとるものだと思う)

神というものはすでに過去の奥底にしか存在しないものなのだ(あるいは、これが神がすべてに内在している、ということかもしれないが、それならばすべての過去は神と等しいものだということになると思う。それは結局すべての存在が究極だということになりそうなのだが、それにはまだ説明のできない大きな違和感が抱かれる)。

…最後に精神と過去というややこしい言葉を使ってしまったのでこれらについても書くべき?

せーしんについて🍌

僕にとって精神というものはいわゆる心とは同一の存在にあたらない。心、ないし感情は脳の造り出したものだと思っているからだ。嬉しいや悲しいといったものは脳という臓器、肉体が造ったものであり、心と肉体には一切の違いはないし、さらに肉体と無機物などは性質が異なるだけの本質的には同じようなものだと思っている。まあ唯物論的な感じだ(もちろん唯物論的なニヒリズムに陥ることは多くのことを意味しないが。そうして宗教的なものに没することも多くのことを意味しない)。

では(僕の考えとしての)精神とはいかようなものかというとすべての物質に内在しているものだと思う。精神とは存在そのものであり、すべてのものに、素粒子(orより小さいもの)単位で含まれていると思っているからだ。これについて語れることは多くないのでまたの機会で。とりあえず精神=存在だということ。

過去について

過去というものは文字通り、過去に起こったすべての出来事を指す。これは出来事なので、当然どのような行為によっても消すことはできず、命や記憶が消えたところでなくなるものではない。それが起こったという事実は確実に存在するのだから。それは例えタイムマシンを使用して過去を変えたとしても、その「タイムマシンを使用して元あった過去を書き換え、別の過去としたという『足跡』」を消すことはできないからだ。過去だけは永遠なのだ。