ある一人の警官

 フェンスの向こう側で、燃え上がる街をバックグラウンドにして無数の人影が呻き蠢いている。かつて人間であった奴ら。今はおおよそ人間ではない奴ら。そいつらの濁った色をした指がフェンスを掴み、離れ、絡み合って壊れた楽器みたいにガシャガシャ、ガシャ、ガシャ、ガシャガシャ、不規則で不愉快な軋み音を発している。

 フェンスの「こっち側」には俺一人。他の人間は皆、俺の背中側の方向へ逃げていった。「それはそうかもしれない」俺は呟いた。「残っている俺が可笑しいんだ。」

 残っているだけでは飽き足らず俺はフェンスへと近づいていく。近づいていくほどに、むしろ近づくというよりは引き寄せられるように、なんだか楽しくなってくるような気がしたのだった。それで心なしか奴らの声が一層興奮したような感覚がした。奴らが人間を喰らっているのは見ていた。するとこれはあいつらから見ると餌を差し出されたような格好になっているのかもしれない。あるいは意識が残っているのかな? あの呻き声は実は助けを求めているのかもしれない。しかしそれなら食人行為は本末転倒も良いところで、本能だけで俺を喰おうとしているようなものなのか、本能を抑えきれない状態かのどちらかだろう。俺も人のことは言えないのかもしれないが。そう考えながら腰に差していた黒く光るスリムな銃身、ペレッタ92FSを見やる。

 俺は、日本では野山の熊は殺す必要などないが、人里に降りた熊は殺さなければならないという話を思い出し(どうでもいいがラクーンシティラクーンとは『アライグマ』の意を指す)、まだ暴動が起きる前の平和な朝に、本日初出勤の新人が全く来ないことに苛ついていたのも思い出した。

 それでベレッタ92FSを引き抜き小気味良い音を鳴らしてセーフティを解除し引き金を引いて、一人の眉間を撃ち抜いた。ようやく腐臭のする肉体から抜け出せたと言わんばかりに赤黒い血が放射状に噴き出した。解放の喜びに舞っている血液のその器だったものはぶっ倒れ、もう二度と動きそうになかった。しかし周囲の奴らはその様子になんのリアクションもしなかった。別に驚かせるとか怯えさせるとかそんなことは期待していなかったが……つまり、そういう、気に掛けるとか、仲間意識とか、ああいうやつがまるで無い。

 それを感じ取ると同時に、自分の中でなにかのスイッチが入ったような感覚があった。なんだか子供に戻ったような感じ。なにか奥に埋もれていたものが競り上がってくる感じ。声に近い透明のなにか。

 そうだ、ガキの頃は喧嘩ばかりしていた。ああいったものは、やらなきゃやられるからだ。だが少しばかり勉学に熱心なハイスクールに進学すると周りのやつらは皆大人しくなった。俺は最初はそれで良いと思った。『もうこれで自分は加害者ではなくなる』そう思ったからだ。だがそうではなかった。俺が率直に、思ったことをそのまま言うと傷付く人間が多いことに気付いた。こんなものは思春期の傷跡みたいなものだと笑いたい自分もいたが、しかし、自分が加害者である、という意識は粘っこく残り続けていて、その反動のように俺は「優しい人間」であるよう努めていた。それでも俺は人を傷付けるのと同じぐらいには自分を抑えるというのが好きではなかったから、抑圧している欲求を満たすようにボクシングをやり始めたのだけど、そういえばボクシングをやる直前になにか奇妙なことをしていたのに思い至った。

 父が仕事に行き、母が出掛けている時、家のガレージで自分が好きだった一冊の本を燃やしたのだった。火の付き始めた白い頁はゆっくりと黒く変色し、そして存在が失われるように消えていく。

 フェンスの不規則な音楽が聴覚を叩き起こす。やつらの呻き声が淀むように流れている。なぜこんなことを今、思い出すのだろう。炎を見たせいかもしれない。なぜ俺はあんなことをしたんだろうな?

 俺は一発一発じっくり狙いを定めて、やつらの頭を撃ち抜いていった。そのうちに弾倉がカラになった。コイツの装弾数は15発だから15匹死んだ。なんだかこれじゃつまらないな! 残りの弾丸をリロードして今度は見境無く撃った。外したり、腕に当たったり、足に当たったり、腹に当たったり、バリエーション豊かに血飛沫が飛び散った。そうして弾が再び切れたとほぼ同時に歪で巨大な音を立ててフェンスが倒された。無数のゾンビの群れが、俺に向かってくる。

「いいだろう」俺はベレッタを放り捨てて警棒を取り出した。多量のアドレナリンのような感覚が熱をもって身体中を走り回っていた。なんだか楽しくて仕方がなかった。どいつもこいつも鈍い動きをしていたが、一匹が素早く飛び出してきた。足の速い個体のようだった。「いいね」俺は走り出す前までは俺の背中側であった方向へと向き直って走った。こうすることで鈍い大群からコイツを引き離すことが出来る。「コイツ、では味気がないのでお前は今日から『足早ジョン』君だ。一対一でやろう。」

 ある程度の距離を作ったところで立ち止まり、俺は警棒を振りかぶって追いかけてきた足早君の顔面をおもいっきり叩き付けた。硬い骨の感触が腕を伝って脳を貫いたかのようにたまらなく快感だった。が、自分が受け取った感触ほどのダメージは足早君にはなかったようで、俺の両肩を掴んで右の方の肩に歯を突き立ててきた。自分の肉ごと突き放すように振り払って顔面をめがけ警棒を何度も打ち付けた。殴る度に快感が走り、相手の顔面は露出した肉なのか血なのか区別がつかないような赤に染まり、そんなことは構わないように再びこちらに両腕を伸ばしてくる。俺もそれには構わなかった。捨て身のように一打を放った。それが最後の一撃になった。

 足早君はようやっと、死ぬという、生命の正しい機能を思い出したかのように、仰向けにくたばった。

 だが俺に安堵はなかった。足早君のもはや顔とも判別出来ない卵型の赤い肉塊をゾンビが踏み潰した。トロくさい連中が追い付いて来たのだ。血でペイントされた青白い面々が目の前で揺らいでいる。畜生。楽しかったのにな。一匹でこの様ならこの数は無理だ。

 俺は奴らに背を向けて崩壊した街の中を走った。走りながら、しかし全く痛みを感じないな、と思った。肩からこんなにドバドバ血が出ているのに。実は俺はもうゾンビなんじゃないか? などと笑っていると、左前の建物からゾンビが出てくるのが見え、捕まる前にさっさと通り過ぎると前方にもゾンビを視認した。

「こりゃあ、先に逃げた連中も皆やられたかもな」と思い、周囲を見渡してもゾンビのいない道などなかったので、自分自身の終わりを悟った心持ちになった。

 殴りかかろうかとも思ったが飽きたような気がして警棒を仕舞い、最後らしく煙草を取り出して火を付けた。が、ずいぶんとド定番な構図になってしまうことが気にかかって他になにかをやりたい気持ちが芽生えていた。「じゃあ俺にはなにが出来るかね」一服吹かして俺は考えた。「この状況で俺はなにが出来る?」

 フィルターが半分になるくらいに煙草を吸う頃には目と鼻の先にゾンビがいる。燃えさかる炎を横切って俺に近づいていく。この暴動が起きてからゾンビも炎も見飽きたものだとそう思ったが、しかし、俺の脳内にちらついたのはあの記憶、本の燃える記憶だった。俺の好きな小説を燃やした記憶。俺はなぜあんなことをしたんだろうな? そして『だったら俺が燃えたらどうなるのかな?』煙草をぽとりと落として踏みつけたことと『そう』考えて次にやる行動が定まったこととゾンビが俺に襲い掛かることが同時に起きた。

 横にすり抜けて躱し、炎の元へ走る。炎の近くには二匹のゾンビがいたが、関係がなかった。炎のすぐ傍で、二匹が襲い掛かってくる。避けきれず片方に捕まり、噛まれる。体力が切れているのか血を垂れ流して力が抜けてきているのか、振り払おうにもなかなかしつこく食い下がって離れそうにない。もう一匹が俺の体を掴む。目の前の炎が大きくうねる。俺を呼ぶみたいに。突き放せないまでも全身の力を使って少しでも炎に近づけるように、ゾンビを押しのける。歯は体に食い込み続け、そうやって殺された人間のことを連想すると少しだけ力が湧いた気がした。

 退屈ではないかと、思ったのだった。そのような死に方をするのはつまらないことであると。俺が今燃えたならば、こいつらも巻き添えになるだろう。巨大な火達磨になるかもしれないなと思うと冗談のように面白かった。炎は先程よりもさらに大きくうねった。そのうねりに触れるように、子供のように必死に、血に汚れた腕を力を込めて伸ばした。