愚痴

 背後に、意志を持たないまま積まれていくものがある。堆く己の身を掲げる塔のようなそれはしかし、腐臭を放っており、いずれ倒れるのだろう。音だけは音楽のような壮麗さを響かせながら、後には醜いガラクタの広がりが残るだろう。

 だから私はガラクタを積み続けている。いや、正確に言えばいずれガラクタに変わっていくものを積み続けている。例えば、時間。例えば、金。例えば、快楽。ちなみに時間が土台を成しているのでその上にあるもの全てが時の流れにさらわれてしまう、ためにこれから訪れる結末は至極当然のものであり、別のものを土台に据えるべきだったじゃないかという野次が聴こえてきそうではあるものの、金やら快楽やらがいかようにして土台足り得るのかという反論には水を打ったように黙り込んでしまうようで、これは地球が偶然に条件を重ねて生まれ、そして消えることが運命付けられているのと同じものだということを決定付けてしまったらしい。

 そもそも、そりゃあ、その反論はあまりに無神経でもあった。私だってガラクタなんて嫌だから愛だの神だのテクノロジーだの、色んなものを土台代わりに出来やしないか探し回った結果がこの有り様なのだからヤケクソにふんぞり返ってクソ建築物を背景に、あえて優雅に紅茶を啜るくらいしかやることがないのであり、訂正、さっきまで旨い紅茶を町中の喫茶店へと探し回ったりしていたわ(買い忘れたけど)……とにかくそういうことくらいしかやることがないってんだから、使い古された根拠の弱い理屈を脳内に召喚した思考をぶん殴ってやりたいところなのだけど、生憎思考は殴るのに適した形をしてはいないので自由闊達に走り回る権利を剥奪出来ずにいる。

この手の「避けられない終末」なんてものは大体奇跡的なパワーでなんとかなるか、終わりの日まで幸せに過ごそうよ、という辺りまでが妥協点であり、主に私の心を満足させることはないのが苦しい話で、華々しい自由意志が愚かな妄想に変わるまでにはパチンコで溶けていく万札と同じくらいのスピード感があったわけだ。

これは不憫なことだ。盛大であからさまな同情の目を吹っ掛けてドン引きされたいくらいのそういう気分だ。だって、人間生まれた時には意志なんて持ちようがない。生まれに意志はないのに成長するにつれて意志が伴う、なんて非対称性を形作っており、これならば生まれた時から意志がある方が形として美しいという私の突っ込みは間違っているだろうか? 生まれた時から意志らしきものが見えない微生物が意志もなく死んでいくのは美しいし、人間が美しいと感じるものの多くも対称性を持っているというのに、「死」という自然原理と「意志」という人間らしさがぶつかった時だけはやけにブスになるのが非常に頂けないと思うのは私だけだろうか?

 突発的に愚痴を(愚痴に決まっている)打ち切り、振り返って目の前に塔を据えた。土台を探しにいこうと思った。なぜなら奇跡的なパワーもないのだし、諦めるという趣味を嗜んでもこなかったのだから。

 それに、紅茶も切らしちゃったからね。