二つの容器

 私たちは19年前、ひどく病気に罹った。大抵の人はそれを病気とは思わないらしい。だからこの病気は未だに認知されていないみたいだし、正体は分かっていないようだ。

それとは別に私たちは物心ついたときから、二つの容器の中で生きていた。大抵の人はひとつの容器の中で暮らしていて、喜んだり、悲しんだりするみたいだった。二つのうちのひとつは同じように喜んだり、悲しんだりしていた。もう一つの方にはこれといって特筆すべき点は見当たらない。なにも入っていないからだ。がらんどうで、ただ空間が拡がっていた。それで二つ容れ物があれば当然、様々なことが二分されて注がれていくのだが、空っぽの方はなんの反応もしないので──つまりは功利に対する喜びの反応や攻撃に対する苦痛の反応など──が機能しないので、注がれることに意味はなかった(ただし意味がないということには意味があるというように、もうひとつの容器の方で解釈はされていくのだが)。もう片方の容器がそれらの反応を享受するのだが、それは分割して半分にしたものであるから、ひとつの容器を持った人より弱い反応であり、そしてなによりも強度が脆いので、容易にあの心の海に流れ去ってお別れをするのだけど。

 

そのようになった記憶は既に忘却の彼方にあって、とにかく僕はその二つの容器の中で生きることにした、ということになる。(念のために僕そのものが容器であるわけではない、ということをここまで読み進めてくれた人のために書き添えて置きたい。しかしそのように書くと僕そのものとはなにかという問いが呼吸するみたいに引きずり出されて来るのだが、それを話すことの苛立ちや疲労や僕の言語能力の脆弱性がすぐさまに戯れてくるので、結局話すことは出来ないと思うし、この話すことが出来ないという事実自体が僕の気分を削ぐので、どうにもならないみたいだ。もう二つの容器についての、とにかく書きたいと思った部分は書き終えたので、この先の文章にはなんの機能性も文学性も備わらないことだろう。そう書いたところで、特に書きたいことももうなかった。強いて言えば、最近村上春樹を読んでいることを話したいぐらいしかない。『騎士団長殺し』だ。僕が村上春樹を読むのは四作品目だ。その中の二作品はあまり好きだと思えなかったので、もう村上春樹を読むことはないだろうと思ったんだけど、気紛れで手にとった『騎士団長殺し』の冒頭に牽かれるものがあり買った。そうしてあまり期待はしてなかったが、予想以上に僕はこの本にかかりきりになっている。文章が美しいと思った。洗練されていると思った。僕の心境の変化ゆえか、本当に文章がより僕に馴染む形へ変化しているのか、それは分からないけれど、とにかく良いと思った。四冊目なので、村上春樹特有の射精描写やグラデーション状の、境界の薄い、ぼんやりとした文体にも実家のような安心感を覚えつつあった。とにかく楽しんで読んでいるということになる。これもやはり二分された高揚といったように、僕には感じられるのだけど。僕の容れ物はそのようになっているようだ。魂が薄いみたいだと思う。魂に濃い薄いがあるかは、僕には判断出来ないことだが。それが不便かどうかは分からない。ただ、多くの人々には、強く人と結び付きたいように僕には思われた。それに対する共感が僕には得られないので、この世界において、その精神性には欠落感のようなものを覚えざるを得ない、というのが正直なところだ。だからとて解決法はやはり、見当たらない。認知されていない病気の治療法が分からないように、それは自明なことだったし、そもそも解決すべきなのかも分からない。こんな有り様なので、社会府適合者ということにまあなる。不適合と一括りにされても、その中身は千差万別だけれど。社会は人をひとつに要約したがるようだ。実際には、人は要約出来ない。これもやはり自明のことだった。僕に至っては人間への欲求どころか、性欲にさえ無視を決め込まれているのだが。あいつは僕が生まれる前から、僕と共に往くとデオキシリボ核酸と約束していたのに、どうやらデオキシスさんは性欲にドタキャンされたみたいだ。僕が生まれる直前に「ごめん、今日はなしで!」とLINEでも飛ばされたのが目に見える。そのドタキャンひとつで、生物の使命を失ったホモ・サピエンスが産まれることなんか知りもしないで。書類も用意していない口約束みたいなものだったから、どうしようもないとは思う。契約書を書くのはめんどうだが、やはり書くべきなんだなと、反面教師にする他はないと思うしかない。さすがに手を止めようと思う。駄文が駄文しているから。

さよなら。)