独りこうてい

 生まれた時分からありのままの自分を肯定されたことはないように思う。もちろん、なにかしらを評価されたことはあるだろう。それは勉強であったり、友人からの賞賛であったりするわけなのだけれど、きっと僕はそれらに満足していなかった。満足させられないことには特に感慨も持たなかったけれど。

ゆえに僕は独りで僕自身を肯定し続けた。自身への肯定それだけが冷たい永久凍土のようにそこにあり続けた。(凍土だから、暖かいものには触れられないのかもしれない)

それは確かに幸福だっただろう。随時燃料の供給がされていく火炉室、尽きることのない永久機関なのだから。常に私は幸福の絶頂に在ったし、これからもそうしていくことは可能なのだ。が、それは(私という人間が定義する意味においての)真実から目を背け、逃走していることだと言えるだろう。そうして恐らく、誰にもその逃走を責めることが出来ないのだなと思う。もしも、明確な根拠に基づいた、私から逃げ道を奪うこと、あるいは私の逃走を罰することのできる方法があるのならぜひともそれを提示してくれ。お願いします。

さて、どういうことなのか。とまあ答えだけを言ってしまえば至極単純で、人間は社会的存在であり、私のような孤独人にはそのような在り方は肌に合わないのだ。

人は独りでは生きていけないは真実で、親の援助、社会の補助、その他、他人との繋がりがなければ僕は既にこの世にはいない。独りの肯定というものは、後付けのものに過ぎないわけだ。私が孤独を謳歌すればするほどに、私は人間ではなくなる、という感覚がある。喜びも哀しみもなく、ただそういう感覚があるというだけの話だ。孤独へ逃避することが人間的な自分からの逃避なのだと。

「孤独で楽しいならば孤独のままでいい」と言う人があるかもしれないが、それを私は「真実からの逃避」と直感しているのでやんぬるかな、孤独人にも人間にもなりきれず、雑魚ゾンビよろしく浮き世をふらついているわけだ。

僕にとって「人間」という括りは共同体であり、僕も人間のなりをしているのでそこに属さざるを得ない。しかし自分には人間という在り方が非常に難解であり、また非常に馬鹿馬鹿しい(という情動が湧き)、理解を求めても拒み、拒まれるものなのだ。

言葉は既に続かなくなりつつある。私は言いたいことを、言えているのだろうか?それは他者に伝わるものだろうか?他者、他人、人々。私の隣人であるはずの人々。私や彼らを救うこと。救うとは?……分からない。なにも分からないんだよ。私が人間から逃げているように、彼らはきっと、人間でないものから逃げているのだから。だからこれは無力な者の無力な嘆きに過ぎないのかもしれない。そうでないかもしれない。分からない。

私はまた、逃走者になるだろう。

誰か僕の逃げ道を閉ざしてくれ。