電車から連想したこと。

 町中を歩けば電車の音を聴くことがあるだろう。ガタンゴトンと音を纏いて、何十何百もの人間を運んでいく。当然私は、電車は乗り物なのだから、その電車が乗客たちを目的地に運んでいくものとばかり思っていたのだが、よくよく考えればそのような思い込みには意味がないのだった。

もしかしたら、鉄道が好きな人間が電車に乗りたいがためだけに乗っているのかもしれず、ただ単に目的もなく、衝動的に電車に乗り込んでいる人間もいるかもしれない。その場合、電車は乗り物ではなく、生きがいとか、人生の休憩所とか、気晴らしの道具とかと言ったものに大きく姿を変えるだろう。が、このような電車に対する認識を私はほとんど持ってはいなかった。

このような認識の幅を増やすことは、一見良いことに見えるけども、さりとて悪いこともあるだろうなとふと思う。

もしも1つのものに対して1つの認識しか持つことができない、という世界を想像してみよう。包丁は調理にしか使われなくなり人を刺さなくなるし、薬物は健康のためにしか用いられなくなるだろう。素晴らしい。鞄は物をいれるだけのものとなり、無駄に高価なブランド品は無くなるかもしれない。インターネットは?分からないけれど、完全に正確だと判断された情報だけが出回るようになるかも。個人の言葉は、正確性がなくてダメだな。本は文字を読むためだけのものだから綺麗に表紙を飾らなくなって……

うん、退屈だな。とはいえ、現代に生きる私たちがここまで極端に認識を偏らせるのはどのみち不可能ではあるが。ここで私が「では、電車が生きがいに成りえるけれど包丁で人が刺される世界と、電車は乗り物、包丁は調理道具以外の役割を決して果たさない世界、どちらが良いですか?」なんて問い掛けをしても、それはハナから理不尽な問いであり、悪趣味だと思われるのだから、そんなことは聞かないでおこうと思う。