誤解と、僕のツイッターにおける在り方

 最近僕は誤解されている。という話を皮切りにして、タイトルの主旨をだらだらと話していこうと思う。

どんな5階か。否、誤解か。それは僕が知的であるということだ。断言しよう、僕には俗に言う論理的思考という力がとことん死滅している。とことんと。とんとことんと。シンキングという言葉にはまるで縁がないし、凸界隈等で巻き起こる綿密で精密で厳密な3密的論理論争ツイートにはなにが書いてあるのか、この脳は理解をすることがない。IQは105らしい。ノーマルである。にも関わらず、僕を知的とする旨が時々浮いて出ているみたいだ。しかもそれが素晴らしき高IQの人間であったり、素人目にも分かる卓越した論理力を持っている人間が言ってくれるのである。どういうことなのか?

その答えはまあ難解ではない、というのも、どうやら僕の文章が良質だから、らしい。要は最初からロジカルのレールから外れているのだ。ロジカルから外れている以上、明確な指標を持って僕以外も含めた「良さげな文章を書く人」を客観評価するのは現行人類には難しいようだ。僕が予想だにしない他の理由があるのかもしれないが。まあそのように端的に(文字通り)説明可能なことをわざわざ僕が掘り返したのは、彼らが使う知的という単語は基本的にロジカル的に使われることが多く思え、なおかつその言葉が非ロジカル的な僕の力に対しても使われているということに捻れた気持ち悪さを感じたので、その捻れを解消し僕の精神を真っ直ぐに整えるがためにこのような文章を書いたということだ。(念のために書いておくと別に誰も悪くないし、知的という言葉も悪くはない。この気持ち悪さとは、そういう忌避されるようなものではなく、なんの気掛かりも貴方が背負う必要は存在しない)((この捻れを論理的に説明できないのがまさに前述のそれww)

とりあえずの書きたいことは書いた。終、以上、解、散。──しかし終わらないのであった。

終わらない理由は単純明快、僕が文章を書き終える理由がないからだ。この孤独的で悪魔的で魅力的な愉悦的行為を手放す理由が特にないのだった。というわけで前述の僕の非ロジカル的な能力と僕自身の人格性とをツイッターでどのように在らしめるか?という話をしていこうか。

ツイッターをなぜ使うか?第一に自分の楽しみのためにだ。僕も、数十分後にこのブログをアップするように、かなり自由に自分のために使っている。特にそれで構わないだろう、実に真っ当な使い方だ。ただ、僕は自分が幸福であることを悟った人間だ。「幸福であることは強者的であり、強者である以上は己以外の他者にも可能な程度の恩恵を認識させ(相手が認識していなければそれは恩恵ではない)、分け与えるべきである」という価値観よろしく偏見を僕は所有している。つまりここで第二の使い方、他者への貢献が現れるわけであり、今回僕が考えたいのはこちらだ。しかし僕は他者云々を考えると黒雲が湧いてでる。善意が仇になること(ツイッターでもやはり、僕は幾人の人間を傷付けただろう)、重篤な心身に陥った人間を直接的に助ける術がないこと、多くの人に手を貸す力を所有していないこと。以上の状況では僕は消え入りそうなほど小さな存在になってしまうし首を突っ込んだところで足手まといだ。そういった人々に対しては、僕は僕の手が届く範囲で力添えをする、という結論になる。相手にとっての自分の要不要を見極めること、ふぁぼ等で見守っている旨を示すこと、FF内の人間を気にかけておくこと。なるほど力不足すぎて殺意が沸くほどだが、とにかくそういうことだ。

重くなってしまったな、もっと軽い話に移ろう。そう、非ロジカルの方面。文章力。これはもう言われすぎているから謙遜するのは辞めた。これはありがたいことで、多くのフォロワーさんの手によって、いつの間にかこの手の文脈における僕の言語パターンが謙遜→誇りに組み換えられていたらしい。本当に、ありがとう。ありがとうございます。

頻度や内容はかなり僕の状態によって左右されることだが、これからもなにかしかのツイートはしていく。これはもう楽しんでもらえるとありがたい。長文も数ヵ月に一回のペースで出るかもしれない笑 あとはまあ、絵も描いていくつもりだ。(これも非ロジカルか)まだまだ未熟だが、絵師レベルにでもなれば案外人助けにもなるのかも、ね、などと思う。もちろん僕が描きたいから描くわけであるが。ま結局は今まで通りだな。僕とフォロワーさんが楽しくいてくれればそれで良い。僕の周りには素晴らしい人間しかいないから。成すべきことを成して欲しいと思う。幸福になって欲しいと思う。悩みを克服して欲しいと思う。書き疲れたんで、今度こそ、以上、解散。