死病

 目の前で大きな大きな人間が泣いている記憶がある。顔を歪めて、床にぽたりと水を垂らした。溢れた水をぐっしょりと吸収しきって水を垂らすティッシュ・ペーパーみたいだった。せっかく口から含んだ水分を目から垂らすのはなんだかもったいないように思った。あのときに私はどのような発言をしたのだろう。それは忘却の彼方だ。が、大方の予想はつく。

「ぼく、死にたいと思ったんだ。どうしよう?」

なんて具合、なのだろうか。あるいはまったく異なるかもしれない。それは、分からない。過ぎた過去は人には触ることができないからだ。しかし少なくとも、言葉の奥にある真意が大きく異なることはないだろう、と思う。

ともあれ、当時泣いていた大きな人間は自殺によって去勢済みであり、私はその人の触れない場所で止まったままの年に近づきつつある年齢だった。触れないのだからもちろん、数字が近づくだけで実際には近づいてはいない。あの人の遺体は今も時間と遊び続けているはずだから、本当の年齢の距離はどこまでも一定だ。

私は街の仕事にいかねばならなかったから、顔を洗い、水を飲み、身支度を整えてドアを開けた。そんなことをする必要はないのだが、私にはそれが習慣だったので今も続けているのだ。

人は疎らに見かけるだけで、地はどこまでも真っ平らだ。正確には階段もあれば坂もある。しかし雰囲気としては変化が掴めない。退屈が重力で全部下に張り付いたみたいだ。きっと空が綺麗なのは、地球の引力によってすべての退屈を剥がされて奪い取られたからだろう、と思った。地獄が悪で、天国が善なのもそれで説明できるな、などと考えた。もちろん地は悪者ではないし、空は正義ではない。地獄が悪者で、天国が正義かも甚だ疑わしい。

他にも様々なことを考えたが、もうすべて忘れてしまった。それは内容の粗雑さにも関係があるかもしれないが、粗雑でないことなどは、生まれてこのかた考えたことがないし、これからも考える見込みはない。だから様々なことを考え、そしてほとんどを忘れた理由は、歩いていた時間にあるだろうと思った。時計を見る習慣はないが、それなりに歩いてはいるのだろう。乗るものはないからだ。例えば電車とか。運転手がなかなかいないのもあるが、よくよく考えるとそれは理由にはならない。私自身、そういったものに乗らずに歩くのが習慣だった。

それを今も続けている。

それが理由だ。

他にも理由があるのかもしれない。

が、もうすべて忘れたのかもしれない。

私には分からない。

 

 

死体もちらほら落ちていた。掃除の行き届いていないバスタブの水垢みたいに。それの処理が私の仕事なはずなのだが、ともかくも一度、会社にいかなければならなかった。手間がかかるのでここで仕事に取り組みたいところだった。が、そうしないことは許されてはいなかった。人間は目的に向かって真っ直ぐ進むことがかなわない存在なのだと思った。遠回りして辿り着くか、最初から目指さないかだ。近道などどこにもありはしないのだ。

「おっす」という声が会社に着いた私を出迎えた。

「ユーヤ」と私は言った。

「ずいぶん早いじゃないか。まだ時間はあるぜ」

「お互い様では……」

「俺はいつも早く来てる。お前の方が非日常なんだ……時計は見たのか?」

「見ていない」私は時計が好きではなかった。

「やっぱりか。見ろよな」ユーヤは苦笑する。彼は誤解をしているのだ、と私は思った。

「いや」訂正をするために私は口を開く。

「ん?」

「時計は関係ないな。いつも遅刻はしていないだろう?」

「じゃあ、なんだよ?なんで早く来た……」

「いつも早くいらっしゃっている人間と話すために、かな」

「気持ち悪いな」

「……」

「いや、嘘だけどさ。……嘘じゃないが。まあこのご時世、話せる人間ってのは特別っつうか、まあまあそんな感じだけどさ。でも………お前がその一人っていうのは、意外で、面白いよ。」

「そうなのか」

「だって……初めて見た死にたがっていたやつがお前だし、それなのに生き残ってるのは、不思議だろ」

「あるいは」

「もう20年前だ。お前には免疫があるのかもしれない。それも症状を全く出さないとかじゃなくて、半端に出したまま留めるベクトルの」

「ユーヤはどうだ。最近死にたくなったか……」

「どうだろうな。俺には分からん。でもまあ、その話はここまでだな。楽しむ力があるうちに楽しみ尽くしたいからね。」

「そうか」

「そうだ、今日はアキが同伴だぜ。お前とお嬢とで仕事だ」

「アキ」

「ああ。良いとこみせろよ」

「なんの話だ?」

「そういう話だ」

「そうか……」私はため息をついた。ので、口から大きく息を吸った。

「なにやってんだ?お前」

「ため息は、幸福が共に出ていく。らしい。だから吸って取り戻した」

「幸福を」

「そう」

「なんだそりゃ!そういうの大事にしてるのか?」

「たぶん、ただの習慣だ」そういって、話すのが億劫になってきたので私は空を仰いだ。太陽がさんざめく空だ。

「空は綺麗だな」とユーヤが零した。地上の重力のおかげだからな、と私は思った。

 

 

私とアキで、死体を回収して回った。いつもそうするように淡々と。死体は確かに元々は人間だったが、今はもう腐敗したタンパク質で形作られた物に過ぎないものだ。死体の持ち主の親族友人でも無い限りは。でかい回収車を私が運転して、街中の死体を集めて巡るのだ。たくさん落ちている。戦争の後みたいに。もちろん戦争は起きていない。そんなエネルギーはもう、人類にはないだろう。死への欲求が人類を覆って、もう誰もが大きな活動をしなくなった。戦争は生きている歴史の証みたいなものだったのかもしれない。破壊や闘争もまた、生きる力だったのだと。

車や体を動かしていればいつのまにか終わっている作業だ。動くのは退屈しなくて好きだ。横からみれば長い鉛筆でも、角度を90度動かして正面から見据えれば点のように見えるみたいに、退屈しない時間は、延長線上に延びる時間が縮こまるものだ。

そうして仕事をこなしていたのだが、中途にアキが口を開いた。

「この後、予定あるの……」

「特には」

「どこか寄らない?」

「どうして」私は彼女を見た。「良いとこは見せていないぞ」

「なんの話?」

「なんでもさ」

「そう。日頃のお礼も兼ねてね」

「仕事だから当たり前だよ。どうしたんだ……」

彼女は私を見据えて言った。

「話したいことがあるから」

 

 

 

仕事から帰り、諸々の手続きを済ませる。頭に靄がかかったみたいに気だるかった。ユーヤに絡まれるなどしつつ、アキと合流して手身近の開いているレストランに入った。

「最近、死にたくなった?」とアキが言う。

「君もそれを聞くんだ?」