また会おう

 独りぼっちの神様になりたい、そのように思った記憶が確かにあった。それは遥か昔、私がまだ若い人間だった頃の、泡沫のような記憶だ。

 第三次世界大戦の際に放たれた、生命の肉体を溶かすB・W爆弾が飛び交って飛び交って地球を外周し、隙間無く地球の全土に墜ちていった。動物も人間も消えていった。人間のテクノロジーが産み出したその兵器はしかし、皮肉にも人間のテクノロジーに打ち勝つことは出来なかった。戦争が起きる直前の時代に、富裕層の人間は身体のサイボーグ化によって、人間を超えた力を持った機械人形となっていた。非生命を取り入れたそれらの人類だけは肉体の溶けることがなく、戦後を生き延びていたのだ。が、問題はそれでは終わらない。彼らは改造の代償に生殖機能を失っていて、次世代のような未来の担い手が現れることがないからだ。彼らは最初こそ、己の生の享受に舞い上がったが、そのことに気付くと絶望を浮かべる人も少なくなかった。私もその時は自分たちが気の毒に思えたが、しかし人間はどのような現実も受け入れてしまうものだ。彼らは各々、悲哀から目を背けるように楽しみを見出だして暮らしていたが、一人、また一人と機械の耐久年数が限界に達して動かなくなっていった。

 彼らは皆動かなくなったが、私だけが戦後の大地を独り蹴っていた。私に施術された機体はどうやら、飛びきりに頑丈で壊れにくいのだな、ということをそうして理解した。私はとても永く生きていると思う。どれくらいの長さなのか、ということは計りがたい。時計はなかったし、昼夜の回数を数える気力はなかったからだ。そもそも空はいつでも鈍色の雲(放射能かなにか、私には知識がないが)に覆われ尽くされていて、昼というものの存在感はすっかり消え去ってしまっていた。虫一匹もいない地を、私だけが観測していた。それで私は、昔夢にみた独りぼっちの神様、という存在を実現出来たように思えて大変満足した。もちろん、私にも寂しいとか、苦しいとかいう感情がないわけではなかったが、このように永く生きている内に、それらは外に表れることを止めた。私は大地を歩き続け、ときにはおもいっきり走り回ったり、好きなだけ眠ったり、また戦争が終わる前の、平和な時分に蓄えた思い出たちを手にとって眺めることで、時を過ごした。思い出というものは、朽ちることがなく、また丹念に思い出すたびに新しい気付きや、忘れていた記憶を思い起こされることもあった。このことから、一つの思い出を持った人間は退屈を知らないだろう、ということを私は学んだ。

 

 

 

 

 

 私はいつも通り、すべてが消えた大地を歩き続けていた。私の身体は不思議なほどに停止することを知らず、その闊歩は不変だった。どこに向かっているのか、ということはもちろん知るよしもなかった。それは本能のようなものだった。私の両足は多くが機械に占められているにも関わらず、意味もなく歩くということを忘れることがなかった。私はそうして歩き続けていたし、これからも永遠にそうしていられるように思えた、そのような思い込みはしかし、実現することはなかった。ふと顔を上げた時、際限のないあの鈍色の雲の隙間から、一筋の光が射しているのが見えた。私はずっと眠っていた衝動に駆られ、光のもとに走り出した。

 光のもとには可憐な一輪の花が咲いていた。私はそれを見ると、なぜか酷い動悸が始まった。手足はがくがく震えていた。私は恐る恐る、花弁の一枚に優しく触れた。途端、私の肉体は煙を吹き奇妙な駆動音をがなりたて、脚の震えが酷くなり、立っていられなくなって膝を衝き、身体の調和を失ってうつ伏せに倒れた。私の顔の前にはあの花があった。私の視界にはあの花しかなかった。私という大きな生き物が、目の前の可憐な花に包まれているような気がした。嗚咽が何処からか込み上げて留まることがなかった。地面を濡らし、それは花の根本に触れた。私はとても哀しかった。私の身体はこの花がために動き続けていたのだという空想が脳を巡ったが、その思考はやがて去った。意識の低迷を感じる。私は薄らいだ視界の中でもう一度だけ花に触れようと、手を必死に持ち上げた。腕がとても重かった。それでも私は、そうしなければならないような気がした。感覚のない腕を歯ぎしりして操作していく。ようやく花弁に触れさせると、揺らぐ世界の中で花だけがどこまでも鮮やかに想起された。視界は閉じられたが、視界の裏にそれはいつまでも残り続けた。また会おう、と私は祈った。