疑似家族

先日、私が衝動的に発したシェアハウスツイートの雑感でも述べていこうと思ふ。

一言で理由をいえば「疑似的な家族」が欲しいという欲求が端を発しているようだ。私は家族の愛情というものを受けてこなかったし、肉体的な(あるいは精神的な?)性質により世間一般の家庭をつくることも不可能なわけだ。ゆえに私が家族的なものをつくるには信頼する友人を近しい場所に集める、という方法を取る必要があるわけだ。

ではなぜにしてそのような欲求があるのか?

寂しい?…それは違うだろう。僕の心を丹念に検反してみても、寂しいという感情は存在しない。それは僕が確固としたセルフを持つ強靭な人間だからである──なんてことはまるでなく、それは僕がただ半分死んだ人間であるからに過ぎない。そもそも自己などはこれまでに触れ合った外界や他人や遺伝子の集合体である一人の他者であり、そのようなものに強靭さを求めるのは精神的安息や高い幸福度を得るというメリットはあれど、それ以外においてはなんの意味も持たないことだ。

半分死んでいるとは虐待などによって精神の働きがある程度停止していることである。諦観の悟りと言っても良いかもしれない。とかくに僕は感情の持続性が無く、喜怒哀楽を感じてもその感覚が長くは持たない。喜びに関しては持続を試みるものの、ネガティブなものに関しては(ネガティブに関しても自分の未だ見ぬ側面を見るために持続を試みる時もあるのだが)より能動的に切り捨てるので極めて刹那的で弱い感情になっていく。

しかし、喜びを持続させているといっても、いかんせん他の人間の方が喜びを享受できている感覚が否めない。不幸も弱いが喜びも弱いようだ。死ぬということの一つの意味は(その行き先が無の世界であろうとアストラル世界であろうと)この浮き世の豊かさと引き換えに安息を得るというギブ・アンド・テイクであり、半分死んでいるとはそういうことだ。生の豊かさと死の安息の狭間を、僕は漂っている。人によってはその状態の方が生きやすいかもしれない。が、僕が半死した経緯は毒親による行為である。自ずからその状態に至るにはハードルが高すぎる。どうにも人は簡単には死ねないらしい。

話を戻すと、だから僕が寂しさから他人を求めることはしないということだ。僕が疑似家族を求めるのはポジティブな意味合いが強い。それは信頼できる人間がいることによる安心と、他者との一風変わった関わりによる新たな自分の発見を得ることだろう。人は一人で生きていける存在ではなく、信頼し合える人間がいるというのは自己を安定化させる。また、他者と触れ合うことは新しい知見を大いに得ることが出来るものだ。本音を吐露できる親友や家族という形に憧れのようなものもある。ありきたりなことだが、そのような欲求が、要は面白そうだなという欲求が僕にあのツイートをさせたということだ。

「ネットで知り合った人とリアルでシェアハピ」この文面が既に面白いと思うし。

書きたいことをすべて書いたわけでもないが、疲れたのでここで筆を置く。

読んでくれた貴方に感謝を。