欲望

 そろそろだと感じた。今日もまた、私はあの崖にいかなければならなかった。そのような思考を片隅に置きながら私はマウスやキーボードの上に指を踊らせる。 製品を造るための設計図を作らなければならなかったからだ。これは義務感に乗っ取った退屈な作業でもあったが、反面妙な楽しみもあった。働いている時間は悩みを抱かなくなるからだ。そのうちに時間は過ぎ去り仕事は終わり、景色は茜色に浸されていく。仕事場では飲み会に行く話をしていて、私もいつも通り、あの気さくな気質を持った同僚に誘われた。そうしていつも通り断った。酒を飲むと、無数に並列する私の欲求が互い互いに溢れ出してしまうのだ。それでは到底生きていけない。気さくな同僚はいつも通り落胆するでもなく笑い、私もまた、口角を上げた。その流れは一つの様式だった。私は会社を出て近場の、屋外のフードコードに足を運んだ。が、予想通り、なにか注文をしたいとは思わなかった。私は一つの椅子に腰掛けて周囲を見渡した。店、食べ物、夕焼け、貼られた広告、匂い、人のざわめき、草木、女性。多様なものがあり、それらに刺激された多様な欲求が渦を巻き、自らの満たされるがために己の優先を主張し合い、衝突し合い、蹴落とし合うのだが、この私の欲求たちはそのいずれもが大きく抜きん出ることがなく、見る間に均衡して凪いでいく。そうして一切は実行を伴わず、奥底に埋もれていき、機能を果たさなくなるのだ。だから客観的に見れば私は何事にも無欲な人間に見えるだろうし、私もそう見られることは自覚していた。そのような極めて穏やかな葛藤が日々の生活の中で少しずつ積もり背丈を増しやがて塔のごとく様相を呈すると、そこでようやく一つの欲求が凪の中から浮いてくる。死の欲求である。私はその唯一の欲望らしい欲望に従って死へと向かい、実体を持ったタナトスをまざまざと見せつけてやることで、やっと私の身体は生きることを思い出し、飯を喰らい、眠りへ向かい、女性を欲するという生の胎動を叩き起こすことが出来た。それもまた、私にとって一つの様式だった。死への向かい方は様々であるが、私にはいつも決まって行く場所がある。私はフードコードを立ち去って駅に向かい、電車に乗り込んだ。電車には長い間乗っていたが、私はいつも通り眠りもせずにぼうっとしていた。

 私は電車を降りて夜道を歩いていく。そうして深い森に辿り着き、中に入り、奥へと歩いていく。この場所は名所と呼ばれていて、だから遺体も見つかるし、人と出会うこともあるが、大抵はもうこの世にいないものと思われる。私が遠い、森を抜けた先にある崖を目指して歩き続けていると、人影が見えた。無視しようかと思ったが、向こうがこちらに気づいているのか、私の方に近づいてきているようだった。私は立ち止まって人影の方に身体を向けた。森の中は淡い月光が降りかかるだけで人相は視認できそうになかった。「今晩は」と声が聴こえた。女性の、まだ若く、とても艶やかな声だった。少なくとも十は歳が離れているように思った。私は挨拶を返した。「良ければ少しお話ししませんか」と聴こえた。私は了承した。私たちは一本の倒木に腰を下ろした。彼女は私に様々な質問をした。「……仕事をしているんですか?」「機械を造っている。今は主に人型のものを」「趣味があるんですか?」「特にはないが、強いて言えば散歩は好きだ」「……憎んでいるものはありますか?」「特には思い付かない」「自分のことをどんな人間だと感じますか?」「欲望の浅い人間」そこで初めて彼女がくすりとわらった。「どういうことですか?」「少し説明が長くなりそうだ」「構いませんよ」

「……例えば恋愛をするとしよう。その時、幸福感に包まれる感覚と、繰り返し恋人に会いたい欲求という二つの状態が生まれる。大抵それは二つ同時に。恋愛する以上そうなるのが一般的だ。けれども一般的ではない人であれば?片方の状態しか生じないかもしれない。一緒にいて幸福を感じるが繰り返し会いたいとまではそこまで思わない。繰り返し会いたいと思うが多大な幸福を感じるには至らない。そのように片方しか機能しなかったとしても、それは確かに恋愛によって機能する部分から発されたものだ。友情とは異なるものだ。その人にとって、それこそが恋愛だ。……それでも周りから見ればそれは恋愛足り得ない。そうして自分もそれを恋愛とは呼べなくなっていく。一部分が欠落した状態はその状態そのものとは呼べなくなっていく。そのように認識できなくなる。認識を失うことは活力を低下させる。分かるだろうか。そのような脆弱な欲望をいくつも抱えればどうなるか。私はきっと、そういう人間だと思う」このようなことを他人に話したことはなかったから、私は少し疲れた。彼女の声がまた聴こえる。「……そうですか。でも人には迷惑をかけなさそうですね……ああ、ごめんなさい。あなたも苦しんでいるんですよね。ここに、来ているんですから。私は、本当に駄目な人間なんです……」彼女は家族との確執や、学校で虐められていたことや、仕事でミスばかりすること、パワハラを受けて退職したことを話した。「私は生きてちゃ駄目なんです」数回、そう言った。だからもう終わらせるのだと語った。途中からは涙声になっていた。「この森をもう少しだけ進むと崖がある」と私は教えてやった。

「……ありがとうございます。あなたもそこに行くんですか?」と問われたので「行かない。私はもう引き返すつもりだ」と返した。私はもう目的を果たしたような心持ちをしていた。顔は依然として見えないが、彼女は驚いている気がした。刹那の沈黙の後に私は「君の声はとても艶やかだ」と言い、身を翻した。

 私は森の出口付近にある倒木に座り、そこでぼんやり座っていた。枝葉の遮りは途絶え、月光りが行き渡っていて、長い間森の暗闇に浸っていた私を和ませた。私はやはり眠りもせずに座り尽くした。そこに居続けると、森に私がいるのか、私が森そのものなのか、分からなくなりそうだった。風もなく音もなかった。私はじっとし続けた。

 静寂を破ったのは朽ちた枝木を踏み砕く音だった。森の中からは、まだ少し幼さを残した女性が這い出てきた。彼女は私を見つけた。その顔には様々な感情が、欲望が秘められて逡巡していた。その様を、私はとても美しく感じた。私は彼女に「いってらっしゃい」と声掛けた。彼女は私をじっと見詰め、そうして「いってきます」とはにかんで去っていった。私は帰って眠り、翌日の仕事で機械人形の製作を進めていかねばならなかった。