吐瀉

 気味の悪い暗闇が広がっている。体全体と唇とに柔らかい触感を感じていた。触感の正体がなにかは忘れてしまった。しばらくその感覚に身を委ねていた。暗闇と感触の経験だけがあった。やがてそれらの感覚は無くなった。目蓋を開け光を受け入れると、目の前には加純がいた。私は加純の家のリビングに居た。喉が渇いていたので台所に赴きミルク・コーヒーを淹れた。加純のカップには私の何倍もの砂糖を投与した。それが美味とは思われなかったが、だからといって特に意見することもなかった。私たちは互いに異なる味のコーヒーを味わった。大変美味かった。しばらく当たり障りのない雑談を交わした。仕事の同僚が酒の席で踊り出したことや、最近見つけた、木々の中、隠れ家のようにひっそりと経営している古本屋のことなどを。古本屋は老夫婦が二人きりで商いしていて、周囲の木々は20年前に老夫婦が植えたものだと言われていた。そのうちに加純にもう帰る旨を伝えた。加純は淋しさと愛情とを含めた言葉を向けたが、「少し独りになりたい」と伝えると、了承するしぐさをした。

 加純のマンションを出て、駅に向かって歩き続けた。歩きながら家に帰るかどうかぼんやり考えていた。月は満ちていて、街は輝いて、人いきれが暗く映る晴れやかな夜だった。しかし騒がしかった。そうして互いの言葉を雑音に塗り替える雑踏の中から、けたたましい子供の泣き声がした。平面のような平たい種々の声の中で、幼い泣き声だけが突き上がっているように聴こえた。あまり家に帰りたくなくなった。駅に向かって歩き続けた。やがて辿り着き、適当に切符を買って乗車した。電車に乗っているといつも眠気に覆われていく。十時間眠ろうと思った。

 

 

 

 

 

 「終電ですよお客様」目を覚ますと目の前の駅員がそう言った。駅員は武骨な顔をしていたが、それは無気力から来るものではなく、責務を背負った男の表情だった。駅員に礼を述べて電車を降りた。よく知っている街だった。しっかりとした足取りで再び歩き始めた。歩いている間、もう何者も私の心を感化することはなかった。そうして小さなネット・カフェに辿り着いた。ネット・カフェの前にはホームレスの様相を呈した老いた男が独り、座り込んでいた。男に声かけた。男は明らかな警戒を露わにした。私は特段どうしようという気もなかったから、ただ男の目を見つめた。男は目をちらつかせたり、私を見詰めたりしながらやがてしわがれ声で、俺を馬鹿にしにきたのか、とか、ごにょごにょと話し始めた。最初私は力を入れて聴いていたが、ゆっくりな語りながら話は途切れることがなく続いていき、長い時間の中で私は傾聴の姿勢を忘れていった。おぼろげな聴覚の内でも記憶に残ったのは次の言葉だった。「俺には仕事もあったし、家庭もあった。俺はそれまでの安心できる生活に大いに感謝していた。他の皆と同じように。なのにすべてが台無しになってしまった。すべてが──俺は惨めだな。もう安心することが出来ない」彼は何日も野宿しているし碌な飯を食べていないらしかった。私は彼に、1日ネット・カフェに泊まれて、シャワー代と夜と朝の食事代に値するだけの金銭を寄越した。彼は私に感謝を述べた。私は彼と共にネット・カフェに入った。カウンターの機械人形に個室のワンナイトパックと酒の要望を伝え、空いた部屋に入った。老いた男は二つ隣の部屋に入った。

 このネット・カフェの個室はとても狭く、二人の人間が入れるようなものではなかった。ひとつ分の空間の中で私は寝転んだ。その時、一匹の蜘蛛が壁を這っていることを発見した。加純は蜘蛛が嫌いだった。大抵の動物を毛嫌いしない性質の持ち主であったが、蜘蛛に対しては強い恐怖を抱いていた。家で蜘蛛を見つけた際、慌てふためきながら殺虫剤を探す彼女を尻目に、私は手の甲に蜘蛛を乗せ殺すのは良くないと言い、逃がしてくる旨を伝えて外に出た。私はこの時、彼女の目がないから、蜘蛛をこのまま逃がすことも出来るし、あるいは殺すことも出来る、ということを理解した。私はその時は蜘蛛を逃がすことを選んだ。──そうして今、再び私の目の前には蜘蛛がいた。私は最初から独りだったから、やはり蜘蛛を殺すことも殺さないことも出来た。私は蜘蛛をじっと見詰めた。彼は私の存在にまったく気がついていないようだった。本能のままに、ただ一面の壁を這っていた。私はそっと手の甲を差し出した。が、蜘蛛が私の手に乗ることはなかった。蜘蛛は天井方向へと這っていった。私は酒を仰いで、それから目蓋を閉じた。が、どうしても眠りには至らなかった。寝返りを打とうとして、壁に身体がぶつかった。身体を動かさないようなるべく楽な体勢になった。嫌に頭が冴えていて、色々な思念が来ては去っていった。努めてなにも考えないようにした。心身の停止に委ね、そうして長い間、無為な時間を過ごした。

 朝が訪れた。身体のあちこちが痛かった。ホームレスの男の部屋を覗いてみたが、もう既にいないようだった。カウンターの機械人形をじっと見つめた。──もうここには居たくないと思った。ネット・カフェから出て歩き始めた。空は雲に覆われていた。なにもかも暈したい気持ちを持った。街を歩き続けた。今日も人々で溢れかえっていた。私とすれ違う一人一人の人間がもしも私自身だったときのことを想像した。私はあの学生だったかもしれないし、あの赤ん坊だったかもしれないし、あの男だったかもしれないし、あの女だったかもしれないし、あの老人だったかもしれなかった。そうしてテレビ画面に映る殺人事件の、被害者だったかもしれないし、加害者だったかもしれなかった。街を歩き続けていると声をかけられた。新興宗教の誘いらしかった。私は断った。彼はしつこく声をかけ続け、私が歩き去ろうとしても着いてきたので、私は声と表情とを歪ませて彼を威嚇した。彼はそれで脅えて離れていってしまった。私は少しがっかりした心持ちだった。もっと彼に言いたいことが私にはあったはずなのに。どこか消化しきれないような奇妙な感覚を抱いて歩を進めていくうちに、その感覚が段々と肥大化していくような気がして、私はどうしようもなくイライラし始めた。私は携帯を取り出して加純に電話をしようとした。が、なにをどう話せば良いかが私には分からず、携帯を操作する指が止まった。私はしばらくそのまま、呆然とした。私はなにがなんだか分からなくなっていた。どうしようもなくなにか憂鬱で気味の悪いものが吹き出そうとしているのに、どのように外に出せばいいかが分からなかった。私は携帯をしまい、不鮮明な感覚と混乱した思考を持ち寄って街中を歩いた。景色が溶ける音がした。私はもしかしたら人とぶつかったり、立ち入り禁止の場所に踏み行ったりしたかもしれないが、私には分からない。私は歩き続けていた、と思う。しかし歩いても一向に景色が変わる気がしなかった。ぼんやりと色彩や音の変化を五感が捉えていたが、それは私にはさして変わらないものであり、意味のないものだった。低迷した精神だけが唯一、意味を持っている気がした。それはひどい虚無だが、それだけがなにか私に伝えたいことがあるように思えた。なにを伝えたいかは分からないから、私はそれを無視することに決めた。現実味を欠いた鈍い憂鬱を引きずっているのだと思った。

不透明な徘徊を続けるうちに夜が降りていた。加純のマンションの近くだった。私は彼女に今度こそ電話をかけて、今から家に行って良いか尋ねた。彼女は直ぐに了承した。私の方が躊躇っているぐらいだった。景色は溶けたままだったが、とにかくどこに向かえば良いかは分かった。私はただ、知っている道筋を辿るだけで良かった。記憶を頼りにぼんやりとした景色の破片を捉えて歩き、私は加純のマンションに辿り着いた。彼女の部屋のある五階まで、エレベーターを使わずに階段を上がった。私はふと手すり壁に寄りかかった。下を眺めて、私はここから飛び降りたい心持ちになった。私は私を殺すことが出来たし、殺さないことも出来た。それは私に喜びを与えた。が、私は加純に会わなければならなかったから、板挟みになって、そこから一歩も動けなくなった。

 どれぐらいそうしていたかは分からない。隣には加純が来ていた。私は胸を握り潰されるような感覚に囚われた。私はなにか喋らなければならないと思ったが、口が動かなかった。どうすればいいかが分からなくなった。明らかに狼狽していた私を、加純が部屋に促してくれた。彼女が差し出した水を飲んだ。が、身体が熱く、脳が締め付けられ、私はうずくまっていた。身体の熱が少しずつ収まる度に私は顔を上げようと試み、その度に再び熱が帯びてなにもかもが真っ白に包まれ、再びうずくまることを何度か繰り返した。どれぐらいそうしていたか分からないが、ようやく顔を上げた。彼女が私を見つめていた。目があって、再び身体が熱くなり、私は目を逸らしてしまい、燃えるような熱が膨張して自分がここにいるのが間違っているような感覚が突き付けられて私は目を逸らしたまま、身体が焼ききれるようになりながら、動けなくなった。「大丈夫だよ」と声がきこえた。加純の声だった。私は彼女の目を見つめて、それから、膨大な熱を押し退けようとするように、抵抗のかかった口を少しずつ開いて、少しずつ開いて、昨日から今までのことを吐瀉した、子供の泣き声を聴いて家に帰れなくなり、ネットカフェで蜘蛛を殺すかどうかを考えていたことや、街中でひどく憂鬱になったことや、そして最後に、先ほどまで飛び降りたい衝動と加純に会うこととで板挟みになっていたことなどを、話が終わって、彼女に抱き締められ、私にはなにも分からなかったが、身が滅ぶようになりながら、彼女がそうならないように繋ぎ止めてくれているような気もして。