無銘

 夜の中を歩き続けていた。家々から明かりがぽつぽつ消え始めた。息絶えるみたいに。だが、それはただの眠りだった。廻る日々に、忠誠を誓う眠り。家が眠り、人が眠り、日が巡ると太陽に起こされるから人が目覚め、家は依然として眠っていて、日が落ちた時に初めて、その明るく光る眼を開けている。人が再び床に就くまで限りのその僅かな目覚めの中で、夜の一点を照らし誰かを見守っている。
 僕の家は、誰も見守らない。電気代が払えなかったから。ねっとりと暑い。冷房も扇風機も眠り続けるから。暗く狭いこの部屋では誰もが目覚めず昏睡している。循環の無い、永い眠りが主になっている。

 そんな昏い静寂の中から、突然着信音が生まれたのだから中古のスマホを手に取ると、「受賞したお気持ちは」、という異物じみた男の声が聴こえてきて意味が分からず「受賞?」と立ち上がって聞き返したら「文学賞に受賞しましたから」などという返事で結局意味が分かることはない。なんだが昆虫みたいな声だ、と思う。「覚えがないですね」と歩きながら言ったら「素晴らしい物語でした」と言われる。「物語が僕の役に立ったことは、一度もないですよ」と返事をしたからそこで通話を切ろうとしたら画面は既に部屋の全てと混ざった黒になっている。もう声も聴こえてこない。幻覚だな、と思い、僕の声が昆虫に聴かれていないことに安堵し、安堵してから自分の緊張していたことに気が付いて喉がなにかに絡まりそうで、キッチンに行こうとしたら既にキッチンの前に立っていることに気付き、手探りで蛇口を捻る、暗闇で目に見えない音を流す水の柱を、横から貪欲に喰らいつくように飲み、勢いづいた水流でブチブチと無理矢理にちぎれていった絡まっていたものを呑み込み、顎の滴りを二の腕の袖で拭い、右手に持ったままだったスマホ、闇の一部になったそれを切り捨てるように、部屋の隅に向けて放り投げ外に出た。
 それで僕は歩いている。ずっと歩いている。果ては無い。目的が無いから。淡々と減っていく寿命と、ついでに孤独と空腹とを抱えて、逃げられないものから逃げる旅だと名付けるだけ名付けてみてもなにもしっくりと来ない。しっくりと来ないまま歩き続けている。僕が来たからそうしたのだと言いたげに、目の前でまたひとつ、家が眼を閉じる。黒い天蓋に張り付く月は見当たらない。ただ小さな星が力なく光るだけだ。アスファルトは点々と電灯に照らされて、闇の底から浮き上がる輝かしい白を見せている。
 いつの間にか通りに出ていた。ときたま車の音が耳に付く。空気が湿っていて、絶えず生まれる汗は背中に張り付くと決めたみたいで僕から体温を奪うから、暑さと冷たさとが身体の内部で交わり始めていた。無数に散らばる電灯から発する、黒を穿とうとしている鋭利な橙色の光が地上を覆っている。その光があまりにも広すぎるから、黄昏がここへ落ちてきたのか、落ちて夜と戦争をしているのかと怖くなり、光の粒子と夜の粒子が動的に流動し喰らいあっているのが見え始めて僕は足を早めた。この戦場から、一刻も早く立ち去らなければならないから。この寿命と空腹とを持ち出して逃げなければならないから。
 やがて前方に、コンビニエンスストアを見つけた。光を放っている。穏やかな光を。僕はコンビニエンスストアに入った。涼しさが熱を払い、単純な冷たさに悦びを感じ、店内を二週も回り、三週目にいってしまいそうなことに気が付いてレジの奥にいる店員を呼ぶ。気の弱そうな店員が近づいてきた時にはなにも商品を持っていないことに気付き、横のケースを見ると揚げ物はなにもない。僕はフライドチキンを揚げるよう頼む。怯えるような声で二十分はかかると言われ、お願いしますと返事をして、じっとしてはいられないのでまた店内を周り、入り口付近の雑誌をみると頭痛に苛まれ、その向かい側に並んだワインを注視する。黄金色に満ちるラベルのものを手に取る。ワインを飲んだことは一度もない。今後も飲めそうにない。

 先ほどの電話を思い出す。金が無い以上、やはり受賞などしていない。
 ワインを飲めるほど豊かになれば、なにか変わるのだろうか。飲み込まれそうな錯覚を覚えるほどに黄金を見詰め続けて、限界まで入り込もうとし続けて、たぶん、なにも変わらないだろう、という結論を出した。表面は変わるかもしれない。が、奥底にはなんの波紋も及ばない。きっといつか、煌びやかなめっきも無慈悲に引きずり込まれ、消滅し、そう在るに相応しい様相を取り戻すだろう。

 僕はなお黄金から目を逸らさなかったのだが、やがて揚げ物が出され、運良くポケットに入っていた小銭だけが入った財布で支払いをした。百八十円だ。気の弱そうな店員は予想に反して、丁寧に手際良くチキンを白い袋に包装しお釣りを出した。声だけが印象通り、戦きながら空気の隙間を縫って僕の耳を触り、チキンを渡された僕は礼を言った。そうして彼は深く丁寧に頭を下げた。
 外に出てすぐの灰色を帯びる車輪止めに腰を下ろした。相変わらず光が優しかったから、少しうとうとした。母の子宮を連想した。僕が刺した柔らかい母の肚を。
 白い袋を破き、見事な狐色が目前に現れた。あまりにも見事だったからじっと眺めた。隠れるように小さく付いている黒の点々に視線を感じた。僕の視線と点の視線が交差する。重複する。不可視だが鮮やかな奥行きが重なり合い層を成すように感じ始める。呼応するように狐色が段々生き物のようにうねり始めて、厳密な形を持った蛋白質から輪郭の曖昧な揺らぎへと移り変わって空気中を揺蕩い、僕の顔に向かってアメーバ状に伸びていく。視界が狐色に覆われて現実が秘匿され、その単色の色彩は由来の分からない美しさを重ねて塗って重さを増して、それだけが僕の全てになりつつあるようで、冷たくて暑かった身体が安らぎを伴う温かさに屈服し、自分が誰で、ここがどこで、どこから来てどこへ行くのか分からなくなり、なんだが気持ち良くなり、ずっとこのままでいたいと思った時には視界が開けて道路の真ん中に立っていた。手元にはからっぽの白い袋だけが残り、百八十円はどこにいったのかと心臓が早鐘を打ち、袋の中をがさごそ探ってみるもただ手がべたべた汚くなるだけでなにも無い。車のクラクションが響く。なにも分からないまま歩道へとふらつきつつ走る。なぜフライドチキンなんて買ったんだろう、と僕は愕然とする。食パン(八十四円七切れ入り)と米(二千四百八十円十キロ)と卵(百九十二円十個入り)以外の食べ物を買う余裕などないはずなのに。頭に線のようなものが走ったけれど、それは脳を残酷に貫くような代物なのだけど。でも、まずはどうでもいい、ということにした。思考を止めた。目の前の、ぼやけるような仄暗い道を見据えた。それ以外の全てを忘れられるように。そっちの方が、きっと自分には生きやすい。
 また、歩き始めた。ずっとずっと、歩き続けるだろう。だからずっとずっと、歩き続けていた。一度だけ女性とすれ違った。黒い道から浮き上がるように現れ、電灯の白い光を反射する、高そうななにかひらひらした模様のある綺麗な服を着て、俯いている。すれ違っただけだった。彼女にも僕にも特になんの変化もない。これは当たり前のことだ、と僕は思った。こういうものなのだから。僕は歩き続けた。なにも変わることなく。停滞した世界を壊そうと試行錯誤しているのか、現実も幻覚も様々な形を抱きながら脳内に飛来したが、少しずつそういうものは少なくなっていった。段々と、諦念を抱いたように、世界が賢く僕を捨てたように。代わりに線が増えていく。外の世界と脳内とを跨がって真っ直ぐに刺す細い線だ。少し包丁に似ていると思う。最初は辛かったけれど、線が連なり幅が太くなるにつれ意識とか、そういうなにかが薄まっていくからかえって辛くも無くなっていく。僕を母体とし増えていく線は首を刺し、肢体に及び、僕は人間というよりも線に近くなった心地で、生まれてからずっと僕の周囲を覆い続けていたような透明な壁が急速に縮むような気がし、壁はほとんど僕に密着する形になりやがて僕の表皮を越えていきそうで、そのせいなのか身体を焼くように鋭利な痛みなのか何なのか分からないひりつきと喉の渇きとが入り込み、それが全身を回り無限に思えるほど循環していく果てに、ゆっくりと溶けて薄まり、消え果て、頭の中が、なにか空っぽになり、足の疲労だけが最後まで意識として在り続ける。やがてはそれもどこかへと去っていってしまった。からっぽになるのが、上手くなっていく。からっぽに馴染む僕は歩き続ける。途中、なにかが足に当たって転がり、それが僕の意識を多少起こして足の痛みと線の刺す苦痛を悶えながら思い出し、視界を覆い始めた線と線の隙間からその正体を覗いてみると、子供が使うようなクレヨンが転がっていて、僕はどこから出てきたのかよく分からない乾いた笑い声を発して、線を掻き分け、それを人差し指と中指でつまみ上げた。

 

 扉を開けるとそこには祖母がおり、視界の景色は祖母の家で、壁に森の風景画が掛けられて床にはどこか朧げで多彩な模様がある、朧げなまま永く在り続ける重さと温もりを持った絨毯が敷かれ、日溜まりに満ちる揺り椅子に座っているのは間違いなく白骨であるのに、生前のままの白髪がふくよかに不自然に靡いている。生きてはいない祖母。天国に着いた祖母。なので祖母がここにいるはずは無く、僕が天国に行く道理は無く、不可思議が脳内を覆い、それを取り払うように、いつの間にか横に立っていた祖母が僕の手を握ってくれる。線のことを思いだし、祖母に刺さらないかと焦ったがいつの間にか線は消えていた。初めて祖母の家に来た時も、手を握っていたな、と思い、骨であっても確固たる温もりを感じた気がし、その時と同じ、導くように、僕の手を引き歩き始めた。
 扉を開けるとそこには八歳の時の記憶と同じように、畳の部屋の机の上で首を吊った父がいて、皺の無いスーツを着ており、記憶では醜く歪んでいるその形相は祖母同様に白骨と化し、なにか思い巡らすようにぷらぷら揺れている。その横を通ると十歳の時、僕に包丁で殺された母が横たわっていて、なぜ母と分かるのかといえばやはり髪が残っているからで、肋骨の隙間に刺さった包丁が紅色にきらきら光っている。生きている時より綺麗だ、と思った。真っ白な骨が忘れられなくなりそうだ。
 彼らを通り過ぎてなお祖母は歩き続けた。少年院から出た僕を引き取った祖母は、僕が働きだしてしばらくした頃、永い眠りに就いた。死んだ、という様相ではなかった。生きてはいない、という言葉は正しい。その顔は、その身体は、その臓器は、もう動かないから。命が癒着していないから。だが決して死、などという余計なものは、付与されてはいなかった。天国に行くとはこういうことなのかと、隣を歩く祖母に聞いてみたかったのだが、祖母は姿を消し、聖書だけが残っていた。二千年語り継がれた原初の物語。僕は僕の部屋にいた。
 でも、僕の部屋に聖書があるはずはなく、幻覚だな、とその時気づいた。僕の隣には誰も立たないことをしばらく忘却出来る良い夢を見たのだ。カーテンの無い窓から見える帳は徐々に黒から紅へと変色していき、黄昏の空に似たその色合いに僕は恐怖を覚え、僅かに色彩を取り戻し始めた布団に潜る。

 微睡みを払おうとするスマホの着信音が聞こえる。ぼんやりとした意識で無理に身体を動かし、どこにあるのかと、床に散らばった奇妙な芋虫みたいな黒い染みのついた大量の紙をクシャクシャ踏み潰しながら探すと、隅の方に音源を見出だした。なぜこんなところにあるのだろうと不審がりながらも手に取って通話ボタンを押すと「締め切りが近いですよ。執筆の具合はどうですか」という男の声がしてまた幻覚を見ているなと思い呆れてふふっと、思わず笑ってしまい、通話を切ってスマホを放り投げた。明るい昼間だというのに幽霊のようななりを見せるごみ袋が溜まるキッチンに行き蛇口を捻ると水が出ない。ついに水道も止まったらしい。腐った肉片のようにぼどぼど流れ落ちていたものは銀色の曲線の内部で硬直したような趣で、なにかとうとう死体の家になったのだなと思う。家賃は何ヵ月滞納していただろう? 仕事をしなければならない。出来るかどうかは不安だが、逃げ道はないのだから。誤魔化すことも幻想も、ほんとうは邪魔なのに違いないから。雲の一欠片もない、空が酷く蒼い。カテーンもないからよく見える。なにかに似た色だと思い、なにかとは恐らく祈りのようなものだと思う。どうにもならなくなった人間に覆い被さる最後の夢なのだと、そう思う。僕は空を見詰め続けていた。飛べたら良いな、と思う。パイロットは難しいから、せめて飛行機の部品を作る工場くらい、派遣の仕事か何かでないのだろうか。
 冷蔵庫を開けると、薄暗い内部に一切れの食パンが残っていた。取り出すと、乾いた白の中の一点が、多少黒ずんでいる。小さな眼のようで、もしこの眼が僕を見据えていたら、その視界は眼本体とは比較にならないほど広大に、世界を喰らい、そうして視界として吐き出している。でも多分、ただのカビなのだろう。僕の眼がただの神経なのと同じように。ただの神経の球体が、現実も幻覚も包括し、繋がれた脳が祈りを捧げている。
 再び着信音が鳴り始めた。僕は食パンに齧り付いた。不思議なほど美味かった。気分が良くなったので、机の上に転がっていた一本の煙草を咥えた。