寄る辺

 夕の射すマンションの通路で隣室の老婆と鉢合わせをした。彼女はなにか黒い布で覆ったものを両手に抱えていて、僕に爬虫類じみた眼を向けていた。いつも小さなしわが無数に彫られた暗い顔をしていて、服は縒れ、比喩でなく異臭を放っていた。僕の目と鼻と感情は、彼女を偏屈で不潔な人間に値すると判断していた。会釈だけしてさっさと部屋に戻るつもりでいた。

「にゃあ」

 と、彼女とすれ違い様に聞こえた気がした。ちらりと振り返ると、彼女はそこに棒立ちになって、煮えたぎる形相で僕を睨み殺してた。殺されるようなことをした覚えもないので、躍動するはてなマークをよそに、僕は迅速に身を翻した。

 部屋に入り、仕事と不愉快な遭遇との疲れを癒すためにお湯を汲む。スマホをぽちぽち触ってお風呂待ちをしていると、インターホンがピンポン、ピンポンと主張した。

ドアを開けた。老婆がいた。閉めようかちょっと迷った。でも迷っているうちに老婆が手元の、あの黒い布をはだけた。そうして布の中からは小さく痩せ縮こまっていて、泥だらけの仔猫が現れた。

「こいつを、お宅の風呂に、入れさせな」挨拶もなく、僕を睨みながら、抑えた声色で彼女が言う。

「良いですよ」と僕。なぜ自分の部屋の風呂場を使わないのかが分からなかったし、あなた自身が風呂に入るべきだとも思ったが、殺されたくはなかったので了承した。

 老婆を部屋に上げて風呂場を示すと、老婆は猫をゆっくりと風呂に浸からせた。その手つきは優しく、さきほどの老婆とは別人だと思うほど篤かった。僕は風呂場を離れて、リビングでやはりスマホをぽちぽちしていた。

 しばらくして猫を足元にくっつけた老婆が、僕にタオルを一枚差し出した。またはてなマークが踊りだした。

「こいつの、ことは、誰にも、言うなよ」と老婆。

 そういえばこのマンションは動物を飼えなかった気がする。つまりこのタオルは口止め料、ということになるのだろうか。しかし、タオルは老婆と同じく臭いがあり、それにさきほど水洗いをしたばかりのように濡れていて、使う気にはなれなかった。しかしいずれにせよ大家にチクるようなことをする気もなかったので、僕は頷いた。

それから老婆は度々、布で隠された猫を肌見放さず持ちながら、僕に物を差し出した。お菓子であったり、日用品であったりした。いずれも近所のコンビニにあるようなものだった。そうしてその度ごとに、仔猫のことを口にしないように言うのだった。僕は毎回了承した。どうやら彼女は、口止め料を払い続けなければ僕に仔猫との生活を破壊されてしまうと思い込んでいるようだった。彼女には、人間を信じることが出来ないらしかった。僕になにか楽しく談話を振ったりすることもせず、ただただ物で僕を満足させようとしているように見えた。その様は彼女の意図とは別に、僕の憐れみを寄せた。彼女の心に人間はいなかった。仔猫だけが人生の寄る辺になっているのかもしれなかった。

 そうした日々が続いたのだが、ある日パッタリと老婆が来なくなった。最初は気に止めなかったが、一週間も音沙汰がないと少々心配になった。安否を確認しようか、と思った。僕がそんな風に老婆と関わるのは変だとも思った。それでも不安が募った。弱々しい猫を想った。僕は決心して老婆の部屋に向かい、インターホンを鳴らした。無事に出てきたならば、理由がないと気まずいから、口止め料の催促でもしてしまうかもしれない、と思った。

 しかし彼女からの反応はなかった。幾度かインターホンを鳴らしたが、無反応だった。僕は不安に駆られてドアノブに手をかけた。すると鍵がかかっていなかったのか、ドアはスルリと開いた。と同時に、臭気が鼻を刺した。

 玄関を見て、驚愕する。ごみ、ごみ、ごみ。足の踏み場がないどころではなく、腰に至る高さまで隅々にごみが充満していた。僕は覚悟してごみ山に足をかけ、匂いと不潔を堪えながら部屋の中に入っていく。部屋の一隅だけは、ごみがなく、むしろ綺麗だった。そこにはキャットフードと砂場があった。老婆は、ごみの山に一体化するようにそこに身体をうずめて、蝿が飛び回り、そうして仔猫がすり寄っていた。僕は警察に連絡を入れた。それから仔猫をどうしたものか迷った。とにかくこんな環境にいるのはよろしくない気がした。僕は仔猫を抱えた。仔猫は弱々しく鳴いて、老婆に両手を伸ばした。

「どうしようもないんだ」と僕は呟いた。

 鳴き続ける仔猫を自室に入れる。お腹が減っているのかと思い、コンビニにいってキャットフードを買ってきたが、仔猫は変わらずか細く鳴き続けて引き出しをかりかりと引っ掻いていた。フードには見向きもしなかった。引き出しを開けてみると、いつか老婆に貰ったタオルがあった。仔猫はタオルに飛び付くと、鳴き止んだ。これは老婆の使っていたタオルなのだと思った。タオルにくるまった仔猫は、安らいだ顔をしていた。そうして明日も明後日も、フードを口にすることはなかった。食べないと、ばあちゃん悲しむぞとか、死んだらばあちゃんに会えなくなるぞなどと言ってみてもその様子は変わらない。仔猫は、老婆が死んだことを、もしかしたら知っているのかもしれなかった。そうして仔猫は、生きるための栄養よりも老婆を求めているのかもしれなかった。タオルから一寸も動かないまま仔猫はすっかり衰弱して、目を開けているかどうかも分からなかったが、やはりその表情は安らいでいるように見えた。