あるとない。

大きく小さい。

意識を言語化出来るか。

イデアの生成力(知覚や身体そのもの) 影への変換(影となる知覚や感覚や身体のもと) 変換の結果(影としての知覚や感覚や感情や身体)

noos→nos→M

noosは流れそのもの、創造者?

Mは創造を体験するもの?

作る力がないから繰り返す。イデアになることで流れを作る。本性の流れ。

nosは通らない?降りるときだけ通る?

思考とは神を思い出す作業。創造する作業。

メモ

 純粋経験とは今現在の知覚をありのままに経験すること。一例として視覚において、リンゴをリンゴとして認識する以前にその色形を知覚しているように、視界に色や形を知覚した際、それが自分が見ているものである、自分の目の前にある、どんな形で色でどのようなものである、などといった判断を加えていないこと。そうした判断、つまり思考の対象となるその内容は現在ではない過去の経験によって構成されたものであり、特定の要素を抽出したものであり、仮想的に作り出されたものであり、それら思考されたものは純粋経験ではない。それは単に特定の要素の抽出となる。過去を振り返った時には知覚の全体像は消える。純粋経験は振り返った時にはそこにはない。純粋経験は常に現在であり、振り返ったならばそれは過去になっているのだから。過去は過ぎ去ったものであり過去は既に存在しない。過去は非現実的な仮想となる。

 純粋経験は現在における知覚すべてが統一されている状態と言える。思考の際、その対象は特定の要素が抜き出されると言うのは、純粋経験が統一したものであるのに対して思考は分裂されたものだからだと言える。思考は純粋経験を解体することによって要素的・条件的で様々な区別・比較・再構成が可能な仮想の世界を作り出すということ。純粋経験は常に知覚すべてが全体としてあるので区別も比較もすることは出来ない。純粋経験は過去ではなく仮想ではなく部分ではない今現在のすべての知覚を指す。そういった意味でこそ思考の手を加えない今そのままにある世界が現実であり純粋経験たるゆえんになる。

自然と不自然 メモ

 

自然性の個人への内在⭐️

 自己認識内において不自然であると認識することが出来る他者の認識内容に不快感を覚えるのはこの「自己と他者では認識の段階に差異があり、段階の進行度は各々に異なる」という構造を見落としている。自然に人一倍過敏になっている人間がむしろ陥りやすい不自然さの構造であると言うことが出来る。自然を解した人間は心中に認識段階の区別を明確にしながらも、その区別(自己認識の段階(いつどのレベルの段階に辿り着くかが人それぞれであることを解するので、(ディスコミュニケーションによる生理的なストレスを覚えることはあれど(理由はないがその人が嫌い以上のものはここには存在しない。理由はないが人を好きになるのと同じように))認識の段階そのものを理由にその人間を見下げるようなことはありえない)を他者に投影することがなくなる。

紛い物

 私に声を掛けた男は、黒一式のジャケットとスキニーパンツ、そうしてごった煮の装飾を纏い、口元の筋を歪めた。色らしい色を目に宿さず、機械的な眼球がてらてらと視界を舐めている。ロボットがもう少し人間に近付こうとすれば、このような姿を手に入れることが出来るだろうと思った。擬態的な意思で動くようなそれを少々億劫に思ったが、私は彼の家に行くことを思い、いつもそうするように、期待を漲らせようと尽力した。
 彼が私に連絡先を要求するのに応じ、そうして私は今から彼の家に行くことを要求した。彼は最初、私がなにを言ったのかを呑み込めない素振りを見せ、瞬間的に戸惑いつつも、殴られた際に上げる悲鳴のような歓声を出し、私の肩を抱いて歩き出した。
 消えかけたような細い三日月は立ち並ぶビルの狭間で肩身狭く鎮座している。人波は個々の存在を奪い、心を、街灯や窓明りやネオンなどの光という光に逃避させて、ただ肉と布の海を形成させている。すっと手を出してしまえばすべてが私のものになると錯覚しそうになり高揚を覚えるが、私もまた一つの波に過ぎないことを思うとどうしようもなく冷める。
 男は多分、趣味であったり年齢であったり様々なことを喋ったが、どのような内容だったか私には記憶になかった。ただ、無職であるということと、青色が好きであるということだけが脳に残った。青色は良いねと私は言っていた。それと彼のよく上下する唇は見る値打ちを感じなかったが、真っ直ぐに閉じている間には、暗い血色をした二枚の板を美しく思った。
 駅に辿り着き、電車に乗り、降りて、少し歩くと小さなアパートを男が指した。部屋は床の踏み所がないほどに、物が散らかっていて汚なかった。歩く度に無機質でありながら柔らかい感触が足裏に伝わり、笑っているような音を立てた。剥き出しのゴミ袋にはコンドームと紅く染まった紙が散見されたが、特に気にはしなかった。私は髪をかき上げて、真っ白な天井を見上げた。中央には丸い円の電灯が光を放っている。
 部屋が熱気に満ちていたからか、男は窓を開けようとした。私は彼の腕を掴んでそれを制止する。不審が半分と、欲望が半分とを蓄えた表情に対して私は言う。
「脚立のようなものはある?」
「……あ?」
 よく聞こえなかった、と言いたそうな顔、異国の言語を耳にしたような顔をしている。
「脚立とか、天井に手が届きそうなもの。……ああ、そこの椅子で良いわ。使って良い?」
 私は座面に衣服が連なり、力無く垂れた袖に覆われる椅子を指した。
「なにしてんだ?」
 衣服をまとめて部屋の隅に追いやり、自分の鞄からは、青い塗料と、ペンキのような幅の広い筆を取り出した。
「おい」
「少し待っていて。その後は、良いことしてあげる……」
 そう言うと、男は笑った。
 私は椅子に立って青を天井に塗りたくった。一面が塗り終わると床のゴミをどかしながら椅子を動かし、天井全体に青を広げようと勤めた。手がぎりぎり届くくらいで、ずっと伸ばしていなければならず疲れはするが、気持ちよさが打ち勝ってその動作は滞ることがなかった。塗り進むにつれて快感が身体を貫いていった。男には見向きもしなかったが、私を奇妙な顔で眺めながらも、提示された報酬を反芻している中で、揺れ動いているのかもしれなかった。見たところでどんな顔をしていようがどうでも良かったから、私の想像で事足りた。
 そうして隅まで塗り終わった。空よりも狭い青に太陽よりも大きな円がへばりついていた。その様に私は心から満足した。
「なんの」
と、声が聞こえた。振り向くと男がいた。そういえばここの主だった。
「なんの演出だよ?これは……おい。意味が分からんが、もういいだろ?こっちに来いよ」
 男が私を掴んで無理矢理に引き寄せる。手付きが雑だった。眼前に、男の顔がある。
「剥がれてる」
 私はつい口走った。
「なんだと?」
 壊れたオモチャみたいだ、と思ったのだ。だって、ありきたりの欲望と単純な高揚で無機質に覆われていた眼球に、僅かにダークブルーな怯えが混じっている。まったく機械的ではない、極めて人間らしい色だった。私を異常者だと感じ始めている色。本当は今すぐにでも突き飛ばしたい嫌悪感。だが男自身はそれに気づきもしないというジョーク。先ほどの機械的な眼とのギャップも相まって、肩が細かに震えだしている。すぐにそれは我慢がならなくなり、私の口からはくっ、くっ、くっ、という笑みが、不規則に漏れだしていた。
「ふざけてんじゃねぇぞ」


「なんだよ、お前」
 男の髪にはいつのまにか、青い塗料が微量に付いていた。
「空を……」
「……は?」
 髪の隙間から、青が彼の頭に侵入していく様を連想していた。皮膚に分け入り、肉に沈み、頭蓋骨の隙間を撫でていく。
「……昔から、空を手に入れたいような気持ちを覚えていた。でもそんなことは不可能でしょう。空は誰のものでもない。それが私には許せなかった。だから私には紛い物の空が必要だった。自分の部屋では駄目なの。目覚めるたびに目にしてしまうから。生活の中にあり続けてしまうから。きっといつか飽きる。それもまた許せないことね。だから他人の部屋が良い。誰でも関係がない」
 男は青ざめている。私はごみ袋のコンドームと暗い紅を指して言った。
「貴方はこういうの、向いているか怪しいね。もっともっと他人を物として考えないといけない。人間のあらゆる面を削ぎ落として、純粋な肉塊として扱うことの出来る機械にならなければならない」
「もう、良い。良い。出ていけ」
 電波野郎、と男は私の肩を掴み外に追いやる。
 見上げるとそこには、世界の天井が広がっている。
 あの広大な空と視覚的に小さな星には自分の手が届かないことを見せつけられると、やはり冷めたような心持ちになる。
 男は放るように私の肩を押して部屋の中へと去っていった。最後に見た唇は変わること無く美しく見えた。

共栄

 微睡んだ意識の中で重いまぶたを無理くりに持ち上げる。息子の応答に応えなければならなかったからだ。8月の午前五時、仄かに陽が満ちる早朝、さやかに響く歓声に意識を持ち上げられる。妻も目覚めて二人、上体を起こす。

「どうしたんだ」と私が言う。

「いいからきて!」と息子が言う。玄関あたりにいるのかと目星をつけ、起き上がり寝室を跨ぐ。息子は玄関口に置いてある虫カゴを凝視していた。近づいて息子の肩口からカゴを覗くと、そこには乳白色の甲殻を顕にした兜虫がいた。

「あら、羽化したのね」と妻が言う。

 初夏、神社の祭りに家族で出掛けた時に兜虫の幼虫を拾った。神社の少し外れにはふくよかな土壌があるのを私は知っていて、息子をそこに呼び少しばかり土を掘ってみると、予想通り丸まった白身が姿を見せた。

 息子は最初気持ち悪がっていたが、この生き物が成長すると兜虫になると教えてやると、仰天して幼虫をまじまじと見つめていた。これがあのカッコいい兜虫になるとは信じられない、とでも言いたげに。

 飼ってみるか、という私の提案に息子は即答した。その日は屋台も回りヨーヨーも釣ったが、なによりも兜虫が息子の気を引いたようだった。その後餌やりは一度も忘れはしなかった。その結果が今、目の前に表れている。

「見れて良かったね、どうして気づいたの?」と妻が訪ねる。

「トイレに行きたくなったの。で、こんな早くにこいつのこと見たことないなって覗いたの」と息子が答える。

 私はあまり兜虫に魅力を感じてはいなかった。それでも息子の表情に広がる喜びから、それを推測した。息子にとって未熟さを残す白は宝物のように光り、生まれ変わった姿に成長の奇跡を感得していると。しかし、その想像は目の前にいる息子から反映させているような気もした。私にとって、子の眼は唯一無二の輝きに満ち、子の成長は想いを馳せるものだった。それでも私は息子に対して、息子は兜虫に対して、そうして親子二人、似通った心持ちを抱いているように感じられた。それは私の胸の奥からじんわりと至福を溢れさせた。

 

 

 

 

 多種多様な仮想人格を広大な精神内部にぶちまけた貴方はそのうちに殺されるだろう。と預言者は言った、たぶん自分の予言を余り信じていない夜のガードレール染みた暗くて白い顔。太陽を知らない耽美な肌。日本人形のごとく、少しずつ色味をズラした金と紫の服が幾重にも重ねられどこか絢爛で、きっとその服の下は痩せ細っていることが顔から窺える。生気がない。でも死んでいない。というかなり面白い顔をしていやがるのだが別に笑う必要もないと僕は思った。笑っても、きっと彼には意味がないという直感が僕の脳内を駆けた。あまりにも強く。僕の脳を突き抜けて味噌をぶちまけるほどにはそれは強固、そういう圧倒的なイメージが、生きているとたまにある。「誰だ?」という問いを僕はかけない。かける意味がないからだ。◼️◼️◼️僕と彼は初対面で、彼が預言者であるということは冒頭より少し前の会話で判明した。でも、もうその会話は忘れてしまった。僕の記憶はあまり強固ではない。普通の人は、直前の会話ぐらい覚えているらしい。でも、普通の人は、さっき書いた圧倒的なイメージというものをあまり持ち得ないらしい。これは一長一短のロールモデルとして国語の教科書に乗せたいところではあるけれども、とにかく、今最も重要な情報は、彼が預言者であるということだ。彼は僕の未来を知っている。

 追記・僕は僕の未来には興味がない。

 追記2・ここは裏町の一角にある暗く木製でドアの壊れた建物の内部であること。僕はこういう場所に足を踏み入れるクセがある。たぶん、退屈しないからだ。逆に言えば、僕が楽しめるのはこういう場所だけだ。それは危うさがあったが、それが僕の生き方であるのでこれで良いと思う。

「貴方は」預言者が口を開く。

「貴方の人生を望んでいる。……輝かしい人生を」

「そうだね」

「それは富と名誉には関わりがない」

「間違いないね」本当にそう。預言者は実に預言者らしく僕の性格を鮮やかに見通してみせる。楽しくなってきた。

「そして」

「でも僕は死ぬ」少しばかりの意地悪を垂らしてみせる。貴方ばかり話していても僕は退屈するからだ。

「ええ、このまま貴方が嘘を付き続けるのならば」

 嘘。これは心当たりが多すぎる。僕の常用手段。嘘の情報を囁き、嘘の関係を作り、嘘の感情を作り続けてきた。嘘の、仮想の人格のイマジネーションを知人友人恋人にばら撒き続けてきた。

 嘘=死、それはむしろ一層の虚言を掻き立てる方程式にしか、僕には感じられないのだが。

 生きなければ死ぬことが出来ない。死ななければ生きることが出来ない。これは圧倒的なイメージに担保された僕の持論であり、おそらく僕以外の人間にも抱え得る人間のひとつの生き方のようなもの。生も死も等しく求め矛盾を起こして歪み切る。その歪みに対峙するマゾヒストの一種。だから困る。死ぬなと言われても困るし、生きろと言われても困る。

「挟まれていたいんすよ」僕は言う。

「生と死。命と無機物。その狭間みたいな場所に僕は立っていたいんだ。それがぼくちんの存在の輝き──そういうものであると思う。」にっこりと笑みを焚べながら僕は続ける。

「だから、殺されるとか言われても、困ります。その殺人者、なのかな。そいつから逃げることは生きてしまうことになるし、殺人者にされるがままにしても死んでしまうことになる。そいつの存在は邪魔すぎるし、だから、あれだなぁ、困りますね」

思い付くまま流暢に喋る。それが僕。僕は僕。真実かどうかなどどうでも良い。これはそういうものであるのだから。

「でも貴方は殺される」預言者は言い切る。

「うーん対処法は?」口をへの字に曲げ、顎にてを添えて、大仰に斜め上へ視線を流しながら僕は言う。

「ええ、そのまま殺されていれば良いと思います」

 なるほど。とりあえず僕が判断すべきことは、彼を殴るか殴らないかということだ。理由は返答が詰まってらくに流れないトイレのようにつまらないからだ。

「そんなに興奮しないでください」まるで一国の頭領のように預言者がいう。僕は自分でも知らない間に作っていた握り拳を弛緩させる。

「貴方は殺されるという言葉の意味を履き違えている。大丈夫、きっと貴方の望むようになる」

 

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 分からない。新種の謎々を出されたのかもしれない。あの預言者は結局、殺されるとはどういう意味であるか、という問いには答えることがなかった。でも僕は天才なので、その理由を推察するのは容易い。彼は意味合いを曖昧にすることで、殺されるという言葉の意味合いを曖昧にすることで、僕の生と死の狭間に立ちたい、という欲求を叶えてくれたのではないのだろうか。彼の予言が真実であろうと、その子細な内容を僕自身が知ることが出来なければ、僕の在り方は確かに守られる。それは理に叶ったことだ。ちなみに僕は既に帰宅してる。時計を見る。午前一時三十ニ分。眠くはない。明日は日曜日でしかも快晴だ。寝る理由がなかった。かといって動く理由もなかった。仕方なく僕は布団の上でゴロついていた。思考の海をしばし彷徨った後、殺人者について考えが及んだ。

 いつ来るのだろう?

 と同時に、「殺されるということの意味を履き違えている」という、あの色のない唇から抜け出た言葉も僕には珍しく、忘れてはいなかった。

 僕は頭を掻いた。僕は寝返りをうった。僕は枕を掲げてくるくる回してみせた。時計の針もこれぐらいの速度で回って欲しかった。

 楽しみなのだ。僕にとって死はひとつの意味しか持たなかった。完全な消滅、そのような意味でしか。新しい意味──新しい死! それは大いに僕の好奇心をそそった。僕はなんなら死にたくなった。正確には殺されたくなった。口角が上がった。「そんなに興奮しないでください」──無理だ。僕はより一層の高揚に厚く抱かれて飛び起きた。

 目の前に、人がいた。女性だった。前触れもなく音もなく。そうして途端に眠くなった。通常、誰とも知らない人が自分の部屋にいれば目は覚めるものであり、僕が通常の範疇に収まらないことを考慮しても、それは変わらないことであるはずだった。

 殺されるのか?意識の片隅でそう思う。新しい死とはかように僕を置いてけぼりにするものなのか? いやそれはない、預言者は僕の望むようになると語った。それを嘘でないとして、僕のような虚言人間のクチでないとして、そこには確実に僕がいるはずである。というか、今日僕は預言者と別れてから誰とも喋っていない。つまり誰にも嘘をついてはいない。預言者は嘘をつき続けると殺されるだろう、そうも言ったはずで預言者がやはり嘘つきなのか、というところまで考え、ハッと思い至る。

 僕が僕自身に嘘をついているのではないか。そういう可能性が、という意識の淵における思考を回す。もう眠くてたまらないが、これだけはまとめなければ。

 他人を騙す前に、僕が僕に騙されている。そういう考え方は確かにいままでしなかった。だから困った。僕は誰なのか、僕はなぜ生きてきたのか、すべて振り出しになるような劇薬の味を、ぼんやりとした脳の中で噛み締める。思考は既にして霧に覆われつつあり、さしあたっては僕がやることは二つ。

 来世は嘘つきに生まれないことを祈ること。

 そうして今現在、この圧倒的な眠りの感覚を、最後の一滴まで味わいつくすだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寄る辺

 夕の射すマンションの通路で隣室の老婆と鉢合わせをした。彼女はなにか黒い布で覆ったものを両手に抱えていて、僕に爬虫類じみた眼を向けていた。いつも小さなしわが無数に彫られた暗い顔をしていて、服は縒れ、比喩でなく異臭を放っていた。僕の目と鼻と感情は、彼女を偏屈で不潔な人間に値すると判断していた。会釈だけしてさっさと部屋に戻るつもりでいた。

「にゃあ」

 と、彼女とすれ違い様に聞こえた気がした。ちらりと振り返ると、彼女はそこに棒立ちになって、煮えたぎる形相で僕を睨み殺してた。殺されるようなことをした覚えもないので、躍動するはてなマークをよそに、僕は迅速に身を翻した。

 部屋に入り、仕事と不愉快な遭遇との疲れを癒すためにお湯を汲む。スマホをぽちぽち触ってお風呂待ちをしていると、インターホンがピンポン、ピンポンと主張した。

ドアを開けた。老婆がいた。閉めようかちょっと迷った。でも迷っているうちに老婆が手元の、あの黒い布をはだけた。そうして布の中からは小さく痩せ縮こまっていて、泥だらけの仔猫が現れた。

「こいつを、お宅の風呂に、入れさせな」挨拶もなく、僕を睨みながら、抑えた声色で彼女が言う。

「良いですよ」と僕。なぜ自分の部屋の風呂場を使わないのかが分からなかったし、あなた自身が風呂に入るべきだとも思ったが、殺されたくはなかったので了承した。

 老婆を部屋に上げて風呂場を示すと、老婆は猫をゆっくりと風呂に浸からせた。その手つきは優しく、さきほどの老婆とは別人だと思うほど篤かった。僕は風呂場を離れて、リビングでやはりスマホをぽちぽちしていた。

 しばらくして猫を足元にくっつけた老婆が、僕にタオルを一枚差し出した。またはてなマークが踊りだした。

「こいつの、ことは、誰にも、言うなよ」と老婆。

 そういえばこのマンションは動物を飼えなかった気がする。つまりこのタオルは口止め料、ということになるのだろうか。しかし、タオルは老婆と同じく臭いがあり、それにさきほど水洗いをしたばかりのように濡れていて、使う気にはなれなかった。しかしいずれにせよ大家にチクるようなことをする気もなかったので、僕は頷いた。

それから老婆は度々、布で隠された猫を肌見放さず持ちながら、僕に物を差し出した。お菓子であったり、日用品であったりした。いずれも近所のコンビニにあるようなものだった。そうしてその度ごとに、仔猫のことを口にしないように言うのだった。僕は毎回了承した。どうやら彼女は、口止め料を払い続けなければ僕に仔猫との生活を破壊されてしまうと思い込んでいるようだった。彼女には、人間を信じることが出来ないらしかった。僕になにか楽しく談話を振ったりすることもせず、ただただ物で僕を満足させようとしているように見えた。その様は彼女の意図とは別に、僕の憐れみを寄せた。彼女の心に人間はいなかった。仔猫だけが人生の寄る辺になっているのかもしれなかった。

 そうした日々が続いたのだが、ある日パッタリと老婆が来なくなった。最初は気に止めなかったが、一週間も音沙汰がないと少々心配になった。安否を確認しようか、と思った。僕がそんな風に老婆と関わるのは変だとも思った。それでも不安が募った。弱々しい猫を想った。僕は決心して老婆の部屋に向かい、インターホンを鳴らした。無事に出てきたならば、理由がないと気まずいから、口止め料の催促でもしてしまうかもしれない、と思った。

 しかし彼女からの反応はなかった。幾度かインターホンを鳴らしたが、無反応だった。僕は不安に駆られてドアノブに手をかけた。すると鍵がかかっていなかったのか、ドアはスルリと開いた。と同時に、臭気が鼻を刺した。

 玄関を見て、驚愕する。ごみ、ごみ、ごみ。足の踏み場がないどころではなく、腰に至る高さまで隅々にごみが充満していた。僕は覚悟してごみ山に足をかけ、匂いと不潔を堪えながら部屋の中に入っていく。部屋の一隅だけは、ごみがなく、むしろ綺麗だった。そこにはキャットフードと砂場があった。老婆は、ごみの山に一体化するようにそこに身体をうずめて、蝿が飛び回り、そうして仔猫がすり寄っていた。僕は警察に連絡を入れた。それから仔猫をどうしたものか迷った。とにかくこんな環境にいるのはよろしくない気がした。僕は仔猫を抱えた。仔猫は弱々しく鳴いて、老婆に両手を伸ばした。

「どうしようもないんだ」と僕は呟いた。

 鳴き続ける仔猫を自室に入れる。お腹が減っているのかと思い、コンビニにいってキャットフードを買ってきたが、仔猫は変わらずか細く鳴き続けて引き出しをかりかりと引っ掻いていた。フードには見向きもしなかった。引き出しを開けてみると、いつか老婆に貰ったタオルがあった。仔猫はタオルに飛び付くと、鳴き止んだ。これは老婆の使っていたタオルなのだと思った。タオルにくるまった仔猫は、安らいだ顔をしていた。そうして明日も明後日も、フードを口にすることはなかった。食べないと、ばあちゃん悲しむぞとか、死んだらばあちゃんに会えなくなるぞなどと言ってみてもその様子は変わらない。仔猫は、老婆が死んだことを、もしかしたら知っているのかもしれなかった。そうして仔猫は、生きるための栄養よりも老婆を求めているのかもしれなかった。タオルから一寸も動かないまま仔猫はすっかり衰弱して、目を開けているかどうかも分からなかったが、やはりその表情は安らいでいるように見えた。