仕事中に考えてたこと

 建物内部が何かの臓器のように延々と動き続け、製品を造り出していく。つまり僕は細胞かなにかなのだろうか。ある意味ではそうだろうと思った。仮に僕がミトコンドリアとして存在したならば、酸素を作り続ける存在であることが大体決まる。しかしミトコンドリアでない僕には、その世界への共感は不可能だった。ミトコンドリアに対しては、その世界に興味を示す他にやることは、なかった。

──製造業なのだから、もちろん製品を造る。が、造られた製品を検査する時間もある。流れていく製品を見て、なにか失敗をした、穴が開いている、妙な跡がある、そのようなものがないかを確認する。

僕はそのように流れていく製品を眺めている。作っているのはスマホなどの部品となるもので、それ単体ではなんの効果もなさない塊だ。

失敗作はたまにあるだけだし、たまにでなければそれはかなり不都合なことになるのだから、景色はあまり変化しない。一つ一つの製品は別の存在であるにも関わらず。それは滝を連想させた。滝の景色はほとんど変化しない。それにも関わらず、滝として流れ出る水は速い速度で別の水になる。さきほどまでの水はもう下にあり、今目の前にある水はすべて上から降りて来たものなのだ。

ふと僕は福山伸一の動的平衡を思い出す。人間の体は常に体を構成する物質を出し入れし続けていて、しかしその人間の様相は変わらないのだ。1年後にはほとんどの物質が別なものへ交換されているにも関わらず。滝や製品の流れや人間は同じものに類するのと思った。目の前の製品の流れと僕は、同じ。

しかし、製品たちは今はまだ動的平衡の中にいるが、やがて彼らはスマホやパソコンに組み込まれるのだ。そこにはもはや、平衡は存在しない。ただ破損へと向かっていくだけだ。僕はそのことに無関心な憐れみを感じた。

僕もいずれは、平衡の存在しない、死へと向かうだけの存在になることを知っている。

そうすると自分は、彼らは人間とそう変わらない気がしてきた。僕はまだ入れ替わり続ける。彼らもまた入れ替わり続ける。それはやがて縁に至り、離散するものだ。

そこで初めて僕は彼らに愛情のようなものを感じた。その流れは愛しいもののように思ったからだ。

僕は流れを眺め続けた。生きる僕と流れる部品、死んだ僕と破損した完成品とを想いながら、検査の時間を終えた。