欲望

 そろそろだと感じた。今日もまた、私はあの崖にいかなければならなかった。そのような思考を片隅に置きながら私はマウスやキーボードの上に指を踊らせる。 製品を造るための設計図を作らなければならなかったからだ。これは義務感に乗っ取った退屈な作業でもあったが、反面妙な楽しみもあった。働いている時間は悩みを抱かなくなるからだ。そのうちに時間は過ぎ去り仕事は終わり、景色は茜色に浸されていく。仕事場では飲み会に行く話をしていて、私もいつも通り、あの気さくな気質を持った同僚に誘われた。そうしていつも通り断った。酒を飲むと、無数に並列する私の欲求が互い互いに溢れ出してしまうのだ。それでは到底生きていけない。気さくな同僚はいつも通り落胆するでもなく笑い、私もまた、口角を上げた。その流れは一つの様式だった。私は会社を出て近場の、屋外のフードコードに足を運んだ。が、予想通り、なにか注文をしたいとは思わなかった。私は一つの椅子に腰掛けて周囲を見渡した。店、食べ物、夕焼け、貼られた広告、匂い、人のざわめき、草木、女性。多様なものがあり、それらに刺激された多様な欲求が渦を巻き、自らの満たされるがために己の優先を主張し合い、衝突し合い、蹴落とし合うのだが、この私の欲求たちはそのいずれもが大きく抜きん出ることがなく、見る間に均衡して凪いでいく。そうして一切は実行を伴わず、奥底に埋もれていき、機能を果たさなくなるのだ。だから客観的に見れば私は何事にも無欲な人間に見えるだろうし、私もそう見られることは自覚していた。そのような極めて穏やかな葛藤が日々の生活の中で少しずつ積もり背丈を増しやがて塔のごとく様相を呈すると、そこでようやく一つの欲求が凪の中から浮いてくる。死の欲求である。私はその唯一の欲望らしい欲望に従って死へと向かい、実体を持ったタナトスをまざまざと見せつけてやることで、やっと私の身体は生きることを思い出し、飯を喰らい、眠りへ向かい、女性を欲するという生の胎動を叩き起こすことが出来た。それもまた、私にとって一つの様式だった。死への向かい方は様々であるが、私にはいつも決まって行く場所がある。私はフードコードを立ち去って駅に向かい、電車に乗り込んだ。電車には長い間乗っていたが、私はいつも通り眠りもせずにぼうっとしていた。

 私は電車を降りて夜道を歩いていく。そうして深い森に辿り着き、中に入り、奥へと歩いていく。この場所は名所と呼ばれていて、だから遺体も見つかるし、人と出会うこともあるが、大抵はもうこの世にいないものと思われる。私が遠い、森を抜けた先にある崖を目指して歩き続けていると、人影が見えた。無視しようかと思ったが、向こうがこちらに気づいているのか、私の方に近づいてきているようだった。私は立ち止まって人影の方に身体を向けた。森の中は淡い月光が降りかかるだけで人相は視認できそうになかった。「今晩は」と声が聴こえた。女性の、まだ若く、とても艶やかな声だった。少なくとも十は歳が離れているように思った。私は挨拶を返した。「良ければ少しお話ししませんか」と聴こえた。私は了承した。私たちは一本の倒木に腰を下ろした。彼女は私に様々な質問をした。「……仕事をしているんですか?」「機械を造っている。今は主に人型のものを」「趣味があるんですか?」「特にはないが、強いて言えば散歩は好きだ」「……憎んでいるものはありますか?」「特には思い付かない」「自分のことをどんな人間だと感じますか?」「欲望の浅い人間」そこで初めて彼女がくすりとわらった。「どういうことですか?」「少し説明が長くなりそうだ」「構いませんよ」

「……例えば恋愛をするとしよう。その時、幸福感に包まれる感覚と、繰り返し恋人に会いたい欲求という二つの状態が生まれる。大抵それは二つ同時に。恋愛する以上そうなるのが一般的だ。けれども一般的ではない人であれば?片方の状態しか生じないかもしれない。一緒にいて幸福を感じるが繰り返し会いたいとまではそこまで思わない。繰り返し会いたいと思うが多大な幸福を感じるには至らない。そのように片方しか機能しなかったとしても、それは確かに恋愛によって機能する部分から発されたものだ。友情とは異なるものだ。その人にとって、それこそが恋愛だ。……それでも周りから見ればそれは恋愛足り得ない。そうして自分もそれを恋愛とは呼べなくなっていく。一部分が欠落した状態はその状態そのものとは呼べなくなっていく。そのように認識できなくなる。認識を失うことは活力を低下させる。分かるだろうか。そのような脆弱な欲望をいくつも抱えればどうなるか。私はきっと、そういう人間だと思う」このようなことを他人に話したことはなかったから、私は少し疲れた。彼女の声がまた聴こえる。「……そうですか。でも人には迷惑をかけなさそうですね……ああ、ごめんなさい。あなたも苦しんでいるんですよね。ここに、来ているんですから。私は、本当に駄目な人間なんです……」彼女は家族との確執や、学校で虐められていたことや、仕事でミスばかりすること、パワハラを受けて退職したことを話した。「私は生きてちゃ駄目なんです」数回、そう言った。だからもう終わらせるのだと語った。途中からは涙声になっていた。「この森をもう少しだけ進むと崖がある」と私は教えてやった。

「……ありがとうございます。あなたもそこに行くんですか?」と問われたので「行かない。私はもう引き返すつもりだ」と返した。私はもう目的を果たしたような心持ちをしていた。顔は依然として見えないが、彼女は驚いている気がした。刹那の沈黙の後に私は「君の声はとても艶やかだ」と言い、身を翻した。

 私は森の出口付近にある倒木に座り、そこでぼんやり座っていた。枝葉の遮りは途絶え、月光りが行き渡っていて、長い間森の暗闇に浸っていた私を和ませた。私はやはり眠りもせずに座り尽くした。そこに居続けると、森に私がいるのか、私が森そのものなのか、分からなくなりそうだった。風もなく音もなかった。私はじっとし続けた。

 静寂を破ったのは朽ちた枝木を踏み砕く音だった。森の中からは、まだ少し幼さを残した女性が這い出てきた。彼女は私を見つけた。その顔には様々な感情が、欲望が秘められて逡巡していた。その様を、私はとても美しく感じた。私は彼女に「いってらっしゃい」と声掛けた。彼女は私をじっと見詰め、そうして「いってきます」とはにかんで去っていった。私は帰って眠り、翌日の仕事で機械人形の製作を進めていかねばならなかった。

 

 

 

 

 

迷走

 死んだ曾祖母はキリシタンだった。

 一世紀近い時の流れを支えた純白の遺骨を眺めながら僕が考えていたのは、曾祖母の神に対する姿勢だった。国のために、神のために、そのような大きな物語が途絶え微分されたショート・ストーリーが乱雑される現代にあたっては、一個のものに向き合うという姿勢は淘汰されて虫の息だ。人々は信仰を失った。それは神に対してだけではない。物に対して。自然に対して。世界に対して。粗雑に扱われた傘が妖怪になること。幸福が精霊の業とされること。それらの伝説は人間が諸世界のすべてに対して信仰を抱いていたからに他ならない。現代のそれはカルトなオカルトとして扱われるに留まるだけだ。では、信仰を失った人間は何に縋るのか。発達した技術文化はいとも容易くその問題を解決してくれる。競争を煽る社会圧力、欲望を煽る情報群、興奮を促すジャンク・コンテンツ。端的にまとめれば動物的欲求。それを強烈に刺激してやることで心に穿たれた悩みや不安という名の穴を埋め立てていくのだ。人々はそれで安心を得ることができるし、それを得るためには、露骨に言えば弱者から目を背けさえすれば良い。弱者を喰らいただ食料を待つだけになった、成功した、オスのライオンはとても幸せそうだ。

 さて僕はそれが嫌いだ。人が本能を剥き出しにするその姿が嫌いだ。つまるところ僕は人間を信仰しているヒューマン・フォローワーということになる。動物的欲求に留まらない人間の力があるということ、僕はその考えから目を背けることは出来なかった。そう言うと、なにか痛切な想いを僕が抱いているみたいだ。けれどもその想いは軽過ぎる、ということを僕は知っている。あの曾祖母の、神への想いに比べれば。

 曾祖母は時々、僕に神についてお話をしてくれた。

「神様はね、目には見えないのよ。でもね、いつでもそこで私たちを見守ってくれているし、皆を救ってくれるの」

最初は、僕の兄弟たちにも話していたが、彼らは神に興味を抱かなかったようで次第に話を聴かなくなった。僕とても特別神に関心があったわけではなかった。陽光に包まれた暖色の揺り椅子に腰掛けて、神について語る曾祖母、聖書を開く曾祖母、神に祈る曾祖母。その姿は語りようもないほどに、とても美しかった。このような人になりたいと思った。神を想い信じるこの人より他に美麗な人を、僕は見たことがない。繰り返そう、僕は本当にこの人のようになりたかった。けれどなりかたは、一向に見通しがつかないでいる。

 曾祖母の葬式を終えた翌日、学生の身である僕は親が作ったトースターを喰らい制服を着用して、至極当然のような振る舞いで学校に通う。授業を受ける。部活をこなす。先に部活動を終えていた彼女と合流し、夕焼けの中下校する。僕は彼女に曾祖母のことを話してやった。「神はいるのかな」そんな普遍的で素朴な話になった。

「神様って雲の上にいたりするよね」と彼女が口を開く。

「まあそういうタイプもいるね」

「それってつまり人間の外部にいる。それで一つ思い付いたんだけど、キリシタンが掲げてることって神の他にもあったよね」

「それは何?」

「愛。……アガペーだね」

「…………うん」

「……その、それは一人では成り立たないじゃない?他者がいてはじめて成り立つ。それってつまりもともと人間の中にあるものなのかな?」

「神が外部にいるように、アガペーもまた人間の外部にある、か。」

「そうだね。人の中にアガペーがあるんじゃない。脳や胸や手にそれがあるんじゃない。人と人との間に形成された見えない空間にアガペーがある。」

 愛や神、本当に大切なものは中ではなくむしろ外部に存在する。ならば、神はどこの空間にいるのだろう。曾祖母のように神を信じれば良いのだろうか。でもそれはいわば、人と想像上の神との間に形成された愛に過ぎないのではないだろうか。それは神の本性とは言い難いのではないだろうか。曾祖母は神をどう捉えていたのだろうか。分からない。彼女は既に旅立ったのだから。

 一通りの話題を終え、僕は彼女に欲しい誕生日プレゼントを聞いた。「サプライズって知ってる?」と返されたので「サプライズは嫌いなんだ」と返した。「来年までにサプライズの技術を身に付けてください」と言われたので僕は来年までにサプライズの技術を身に付けることになった。が、よくよく考えればそれは来年サプライズをする、ということが確定してしまい、それは不確定要素を要するであろうサプライズ足り得ないことだと思った。だから僕は再来年、サプライズをすることに決めた。2年後にまだ僕らが繋がっているならば。分かれ道で彼女とさようならをして、一人の帰路となる。

 美は満ち溢れていた。隣を歩く彼女の笑み。街に沈む陽光の輝き。アスファルトに咲く花。茜色の雲海。漆を塗ったような烏の羽ばたき。人いきれの喧騒。そのような中で僕だけが場違いに感じた。一面の白に垂れた一、二点の、無造作な黒のように自分を捉えた。世のすべてのものには反対のものがあって、白は常にその対岸となる黒に侵される可能性を秘めている。一人になって急に気分が沈む。僕は身を翻して家とは別方向に歩き出す。

 痛切さが足りないとよく思う。誰しもがなにかを望んでいるはずだ。それと同じように僕もなにかを望んでいるはずだ。けれど、僕がなにを望んでいるかなど知りはしなかった。神を望んでいるかもしれないし、愛を望んでいるかもしれなかったが、しかしそのいずれもが的外れに感じた。僕は陽光の白の中にいる曾祖母を思い浮かべる。僕は曾祖母と同じ場所に辿り着けるのだろうか。可愛く微笑む恋人を思い浮かべる。僕らは愛し合っているのだろうか。歩く。歩く。徘徊する痴呆老人のようだと自虐してみるが、特に感慨を抱くものでもなかった。回る思考の中で自分がなにを求めているのかを考え続ける。知りもしないものを痛切に求めることは出来ず、分からないまま求めたところでなにを得ることも出来ない様相を呈するだけだ。僕はただ悩むことを欲しているのか、と思った。いやそんなことはない、と思った。けれども、じゃあ悩むことを欲しているのを否定するという、その思考の流れがお前の望むものなんだなと声がする。このような、黒の負の連鎖にはキリがない。僕は思考を打ち切ってただ歩いた。視界もおぼつかず、頭もぼんやりだ。ただ歩く、ひたすらに。夕日が沈み夜の帳が降りてもずっとずっと、どこまでもどこまでも。

 やがて足に疲労が溜まり、それでも歩き続けていたが、公園を見つけるとフラりとベンチに座り込んだ。そうしてもう立たなくなった。そこでぼうとしていた。それもずっとそうしていた。もうあまり、立ちたくはなかった。痛切さが足りないとよく思う。曾祖母が神を信じる姿。親が僕を想う姿。彼女が僕に向ける眼差し。それ以外にも様々の人々、あるいは動物たち。

 皆が痛切になにかを求めている。皆がなにかを。僕は、なにを求めているのだろう。靄のかかる頭が思考や連想を巡回して、どこにも辿り着かない。僕はなにかを求めている、のに。僕は眠りもせずに座り尽くしていた。ずっと、ずっと。そうしているうちに空が白々としていく。ああ、親を心配させたな、とか、学校に行かないとな、制服だしこのままでいいか、とか、現実に引き戻される自分をとても情けなく思った。白い朝日が姿を見せていき、黒は去り、世界はありありと美しくなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

吐瀉物

世界とは強者の総体である。

 

 私のような矮小な人間が一つの座席を破壊したこと。一つの栄光を剥奪したこと。そのような事実は世界への私の興味を喪失させる。彼らがどれほど情熱を傾けようと私が冷えた弾丸を一度放てばそれはあっさりと頭蓋を穿ちすべてを楽に終わらせる。つまらない、という子供染みた思い。次いで、罪悪感(……罪悪感?嗤)。次いで、諦観。私は飽いて拳銃を捨てる。それを持つ権利も、人間性をも。強さに意味は見出だせはしなかったからだ。富も力も名誉にも一切の興味はない。それは卑屈をとってルサンチマンを働かせているのではなく、私が彼らの上に立ってすべてをかっさらうことにより得た知見を述べているに過ぎない。どのような形においても強者はなにか踏み台を要する。力が平和をもたらすことはないようだ。それは一種の暴力に過ぎない。本人がそれを分かっていなくても作動する自動モジュールのようだ。それを分かっていなかったから私はなにも出来なかった。だから私は爪を折ると決めた。

皆が世界に興味を抱いている。皆が世界に。もちろんそれは良しとされていることだ。ただ、彼らには広義の仲間がおり、世界に興味を有さない人間は、数人の友人を除いては、どこにも広義の仲間がいないということを事実として書いておくに留まるだけだ。私は社会の下流で思索を巡らしながら静かに生きていくつもりだ。それ以外を私は望まない。

 

生きるか。

語らない男

 幼い頃、母の墓参りをした日の夜に、こんな夢を見た。私は家のがたつきの悪い戸をガラと開いた。

「ととん、ととん、魚が釣れたで」

そう声を上げた。が、家の中には誰もいなかった。探しても父はおらず、入ることを禁止されている仕事部屋にいるのかもしれないと私は推測した。しかし、時は夕刻。父は空が朱い時には仕事をしない男だった。しかし、他に当てもなく、戸の入り口に魚と竿とを置いて、私はその部屋へそっと足を運んだ。そこで私は目を疑った。父の作品たちが場所を譲るように、隅に退いていた。そうしてその中心で、土の神が這い出たような、巨大で底の見えない洞穴が私を見詰めていたのだ。入り口の斜面は誘うように緩い。不思議と吸い込まれる穴だった。この先に、親がいるのかもしれないと私は思った。そうして足を滑らせたりしないように用心して、慎重に、穴の中へと入っていった。

 最初は斜めに傾いていた地面が、奥へ進むにつれ段々とまっすぐに均衡していき、苦もなく歩を進めることが出来るようになっていった。穴の中は黒に覆われて、なにも見えないものだと思っていた。が、中へ入り込んでいくと段々、周囲に淡い緑が輝きを放っていくようになった。ごうらな岩の天井を緑光が辿っていく景色は、神秘的という他はない。外の空は朱く、それもまた感動的な美しさに溢れていたが、それは太陽という外側の力によって成された光だった。それに対し、この緑光には光源がない。光が光そのものであるように、何者にも依ることがない。その意味でこの緑は、外の朱と対照を成すものだった。私はその孤高の光に包まれながらも奥へ奥へと歩いていく。景色はしばらく変わらなかったが、私には不安も、また高揚もなかった。ただ不思議な安らかさがそこにあった。そうしてずっと歩いていくと、やがて遠くに、なにかが点となって見えてきた。近付くにつれ、それはより詳細な形を形成していく。それは人に見えた。父はここにいたのだ。「ととん!ととん!」と声を張りながら私は人影に駆け寄った。そうして私は、その人影の顔を捉えた時、頭で考えるよりも先に「かかん」と口から言葉が零れた。人影は父ではなかった。そこには亡くなったはずの母が立っていたのだ。次には眼から涙が零れた。「かかん!」と今度はより確信を持って叫び、母に抱き着いた。しかし、その感触は硬い。私は不自然に思って母を見上げた。母は動くことがなかった。再び母の身体に触れる。よく見るとそれには色味がなく、無彩色の表面に緑光を取り込むばかりだった。そうして、どこか暖かみを帯びながらもやはり硬い感触を感じ、私は、その母が石で出来た彫刻である、ということをようやく理解した。気が付くと、母の横には父がいた。私は驚いて声を上げた。父がやや眉を上げ、それは彫刻ではなく、本物の父であるということを認識させた。

「おとん、なにしとんの?」

「俺は……こいつを、創っとった」

「かかんを……」

「あぁ……」

その父の顔つきは、私がこれまで見た彼の中で、最も穏やかさに満ちていた。私はこれまでにそのような父の顔を見たことが、一度もなかった。私はしばらく何も言わずに母をじっと眺め、そして母の手を握った。石であることはまるで関係がないように、とめどないあたたかさが、私の心に伝わっていった。私はここで親子三人で手を繋いでみたい、という衝動に駆られた。私は父に手を差し出して──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥が鳴く。簾から微かに日が漏れる。幼い私は目覚め、そうして先ほどまでの景色がすべて、夢の世界であったことを悟り、落胆した。私は布団から這い出て居間へと向かう。父も既に起きていた。私にはまだ読めない、難解な漢字の並んだ書物を開けていた。「はよう、ととん」と私が言うと「おう」とだけ返した。父は寡黙で、表情を動かすことがない男だった。私が軽い朝食を作り、食卓に並べると、父は栞を挟んで書物を閉じ、黙々と食事をした。食事の間、私はあの夢のことを話そうか悩んでいた。が、食事を終え、父が仕事部屋へ向かおうとした時に、口をついて言葉が出た。

「おれも、仕事部屋に連れてってぇや」

「……なんでや。いつも入んな言うとるやろ。仕事の、邪魔や」

「仕事場に、穴開いとるかもしれんねん……」

「穴やと?」

父は突飛なことを話す私をじっと見詰めた。それでも表情を崩さず、顔の裏にある感情は読み取れない。私は捲し立てた。

「仕事場にでかい洞穴が開いとったんや。そういう夢を視たんや。夢の中にはかかんがおったんや、ととんが彫刻で創ったかかんがおったねん、なあ、仕事場に入らせてぇや、かかんがおるかもしれんや」

父は私の話に対しても、やはり表情を動かしはしなかった。父と私の間に少しの沈黙が生まれ、そうして一言。

「かかんはあそこにはおらへん」

と、そう言うだけだった。私はなお食い下がったが、父は「寝れてないんや。お前に構う体力が、ない」と言って、仕事部屋へと去っていってしまった。私はやるせのない気持ちでそのまま佇んでいたが、村の子どもたちと遊ぶ約束があったので、支度をして外へ出た。

陽光を遮ることのない心地良い空だった。約束の時間までにはまだ間があったので、私は改めて母の墓に行こうかと考えた。昨日の夢の話を母にしてやりたくなったのだ。私は墓場へ向かい、たどり着くと、無彩色の墓標が並んだ中から母の墓を見つけ出す。しかし、母の墓は、昨日とは一点、違う所があった。墓前に何かが置かれていたのだ。それはひとの形をした、小さな石像だった。形が荒く、とても急いで創られたかのようだったが、それは確かに女性で、私はそれを母であると直感した。私は母の小さな手を握った。そこには石でありながらどこかあたたかい、あの感触が確かに感じられ、そのうちに、私の頬をしずくがつたった。私は父を想った。私の頬を何度も何度もとどまることを知らないように、しずくがつたっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

誤解と、僕のツイッターにおける在り方

 最近僕は誤解されている。という話を皮切りにして、タイトルの主旨をだらだらと話していこうと思う。

どんな5階か。否、誤解か。それは僕が知的であるということだ。断言しよう、僕には俗に言う論理的思考という力がとことん死滅している。とことんと。とんとことんと。シンキングという言葉にはまるで縁がないし、凸界隈等で巻き起こる綿密で精密で厳密な3密的論理論争ツイートにはなにが書いてあるのか、この脳は理解をすることがない。IQは105らしい。ノーマルである。にも関わらず、僕を知的とする旨が時々浮いて出ているみたいだ。しかもそれが素晴らしき高IQの人間であったり、素人目にも分かる卓越した論理力を持っている人間が言ってくれるのである。どういうことなのか?

その答えはまあ難解ではない、というのも、どうやら僕の文章が良質だから、らしい。要は最初からロジカルのレールから外れているのだ。ロジカルから外れている以上、明確な指標を持って僕以外も含めた「良さげな文章を書く人」を客観評価するのは現行人類には難しいようだ。僕が予想だにしない他の理由があるのかもしれないが。まあそのように端的に(文字通り)説明可能なことをわざわざ僕が掘り返したのは、彼らが使う知的という単語は基本的にロジカル的に使われることが多く思え、なおかつその言葉が非ロジカル的な僕の力に対しても使われているということに捻れた気持ち悪さを感じたので、その捻れを解消し僕の精神を真っ直ぐに整えるがためにこのような文章を書いたということだ。(念のために書いておくと別に誰も悪くないし、知的という言葉も悪くはない。この気持ち悪さとは、そういう忌避されるようなものではなく、なんの気掛かりも貴方が背負う必要は存在しない)((この捻れを論理的に説明できないのがまさに前述のそれww)

とりあえずの書きたいことは書いた。終、以上、解、散。──しかし終わらないのであった。

終わらない理由は単純明快、僕が文章を書き終える理由がないからだ。この孤独的で悪魔的で魅力的な愉悦的行為を手放す理由が特にないのだった。というわけで前述の僕の非ロジカル的な能力と僕自身の人格性とをツイッターでどのように在らしめるか?という話をしていこうか。

ツイッターをなぜ使うか?第一に自分の楽しみのためにだ。僕も、数十分後にこのブログをアップするように、かなり自由に自分のために使っている。特にそれで構わないだろう、実に真っ当な使い方だ。ただ、僕は自分が幸福であることを悟った人間だ。「幸福であることは強者的であり、強者である以上は己以外の他者にも可能な程度の恩恵を認識させ(相手が認識していなければそれは恩恵ではない)、分け与えるべきである」という価値観よろしく偏見を僕は所有している。つまりここで第二の使い方、他者への貢献が現れるわけであり、今回僕が考えたいのはこちらだ。しかし僕は他者云々を考えると黒雲が湧いてでる。善意が仇になること(ツイッターでもやはり、僕は幾人の人間を傷付けただろう)、重篤な心身に陥った人間を直接的に助ける術がないこと、多くの人に手を貸す力を所有していないこと。以上の状況では僕は消え入りそうなほど小さな存在になってしまうし首を突っ込んだところで足手まといだ。そういった人々に対しては、僕は僕の手が届く範囲で力添えをする、という結論になる。相手にとっての自分の要不要を見極めること、ふぁぼ等で見守っている旨を示すこと、FF内の人間を気にかけておくこと。なるほど力不足すぎて殺意が沸くほどだが、とにかくそういうことだ。

重くなってしまったな、もっと軽い話に移ろう。そう、非ロジカルの方面。文章力。これはもう言われすぎているから謙遜するのは辞めた。これはありがたいことで、多くのフォロワーさんの手によって、いつの間にかこの手の文脈における僕の言語パターンが謙遜→誇りに組み換えられていたらしい。本当に、ありがとう。ありがとうございます。

頻度や内容はかなり僕の状態によって左右されることだが、これからもなにかしかのツイートはしていく。これはもう楽しんでもらえるとありがたい。長文も数ヵ月に一回のペースで出るかもしれない笑 あとはまあ、絵も描いていくつもりだ。(これも非ロジカルか)まだまだ未熟だが、絵師レベルにでもなれば案外人助けにもなるのかも、ね、などと思う。もちろん僕が描きたいから描くわけであるが。ま結局は今まで通りだな。僕とフォロワーさんが楽しくいてくれればそれで良い。僕の周りには素晴らしい人間しかいないから。成すべきことを成して欲しいと思う。幸福になって欲しいと思う。悩みを克服して欲しいと思う。書き疲れたんで、今度こそ、以上、解散。

 

 

 

 

 

 

 

 

死病

 目の前で大きな大きな人間が泣いている記憶がある。顔を歪めて、床にぽたりと水を垂らした。溢れた水をぐっしょりと吸収しきって水を垂らすティッシュ・ペーパーみたいだった。せっかく口から含んだ水分を目から垂らすのはなんだかもったいないように思った。あのときに私はどのような発言をしたのだろう。それは忘却の彼方だ。が、大方の予想はつく。

「ぼく、死にたいと思ったんだ。どうしよう?」

なんて具合、なのだろうか。あるいはまったく異なるかもしれない。それは、分からない。過ぎた過去は人には触ることができないからだ。しかし少なくとも、言葉の奥にある真意が大きく異なることはないだろう、と思う。

ともあれ、当時泣いていた大きな人間は自殺によって去勢済みであり、私はその人の触れない場所で止まったままの年に近づきつつある年齢だった。触れないのだからもちろん、数字が近づくだけで実際には近づいてはいない。あの人の遺体は今も時間と遊び続けているはずだから、本当の年齢の距離はどこまでも一定だ。

私は街の仕事にいかねばならなかったから、顔を洗い、水を飲み、身支度を整えてドアを開けた。そんなことをする必要はないのだが、私にはそれが習慣だったので今も続けているのだ。

人は疎らに見かけるだけで、地はどこまでも真っ平らだ。正確には階段もあれば坂もある。しかし雰囲気としては変化が掴めない。退屈が重力で全部下に張り付いたみたいだ。きっと空が綺麗なのは、地球の引力によってすべての退屈を剥がされて奪い取られたからだろう、と思った。地獄が悪で、天国が善なのもそれで説明できるな、などと考えた。もちろん地は悪者ではないし、空は正義ではない。地獄が悪者で、天国が正義かも甚だ疑わしい。

他にも様々なことを考えたが、もうすべて忘れてしまった。それは内容の粗雑さにも関係があるかもしれないが、粗雑でないことなどは、生まれてこのかた考えたことがないし、これからも考える見込みはない。だから様々なことを考え、そしてほとんどを忘れた理由は、歩いていた時間にあるだろうと思った。時計を見る習慣はないが、それなりに歩いてはいるのだろう。乗るものはないからだ。例えば電車とか。運転手がなかなかいないのもあるが、よくよく考えるとそれは理由にはならない。私自身、そういったものに乗らずに歩くのが習慣だった。

それを今も続けている。

それが理由だ。

他にも理由があるのかもしれない。

が、もうすべて忘れたのかもしれない。

私には分からない。

 

 

死体もちらほら落ちていた。掃除の行き届いていないバスタブの水垢みたいに。それの処理が私の仕事なはずなのだが、ともかくも一度、会社にいかなければならなかった。手間がかかるのでここで仕事に取り組みたいところだった。が、そうしないことは許されてはいなかった。人間は目的に向かって真っ直ぐ進むことがかなわない存在なのだと思った。遠回りして辿り着くか、最初から目指さないかだ。近道などどこにもありはしないのだ。

「おっす」という声が会社に着いた私を出迎えた。

「ユーヤ」と私は言った。

「ずいぶん早いじゃないか。まだ時間はあるぜ」

「お互い様では……」

「俺はいつも早く来てる。お前の方が非日常なんだ……時計は見たのか?」

「見ていない」私は時計が好きではなかった。

「やっぱりか。見ろよな」ユーヤは苦笑する。彼は誤解をしているのだ、と私は思った。

「いや」訂正をするために私は口を開く。

「ん?」

「時計は関係ないな。いつも遅刻はしていないだろう?」

「じゃあ、なんだよ?なんで早く来た……」

「いつも早くいらっしゃっている人間と話すために、かな」

「気持ち悪いな」

「……」

「いや、嘘だけどさ。……嘘じゃないが。まあこのご時世、話せる人間ってのは特別っつうか、まあまあそんな感じだけどさ。でも………お前がその一人っていうのは、意外で、面白いよ。」

「そうなのか」

「だって……初めて見た死にたがっていたやつがお前だし、それなのに生き残ってるのは、不思議だろ」

「あるいは」

「もう20年前だ。お前には免疫があるのかもしれない。それも症状を全く出さないとかじゃなくて、半端に出したまま留めるベクトルの」

「ユーヤはどうだ。最近死にたくなったか……」

「どうだろうな。俺には分からん。でもまあ、その話はここまでだな。楽しむ力があるうちに楽しみ尽くしたいからね。」

「そうか」

「そうだ、今日はアキが同伴だぜ。お前とお嬢とで仕事だ」

「アキ」

「ああ。良いとこみせろよ」

「なんの話だ?」

「そういう話だ」

「そうか……」私はため息をついた。ので、口から大きく息を吸った。

「なにやってんだ?お前」

「ため息は、幸福が共に出ていく。らしい。だから吸って取り戻した」

「幸福を」

「そう」

「なんだそりゃ!そういうの大事にしてるのか?」

「たぶん、ただの習慣だ」そういって、話すのが億劫になってきたので私は空を仰いだ。太陽がさんざめく空だ。

「空は綺麗だな」とユーヤが零した。地上の重力のおかげだからな、と私は思った。

 

 

私とアキで、死体を回収して回った。いつもそうするように淡々と。死体は確かに元々は人間だったが、今はもう腐敗したタンパク質で形作られた物に過ぎないものだ。死体の持ち主の親族友人でも無い限りは。でかい回収車を私が運転して、街中の死体を集めて巡るのだ。たくさん落ちている。戦争の後みたいに。もちろん戦争は起きていない。そんなエネルギーはもう、人類にはないだろう。死への欲求が人類を覆って、もう誰もが大きな活動をしなくなった。戦争は生きている歴史の証みたいなものだったのかもしれない。破壊や闘争もまた、生きる力だったのだと。

車や体を動かしていればいつのまにか終わっている作業だ。動くのは退屈しなくて好きだ。横からみれば長い鉛筆でも、角度を90度動かして正面から見据えれば点のように見えるみたいに、退屈しない時間は、延長線上に延びる時間が縮こまるものだ。

そうして仕事をこなしていたのだが、中途にアキが口を開いた。

「この後、予定あるの……」

「特には」

「どこか寄らない?」

「どうして」私は彼女を見た。「良いとこは見せていないぞ」

「なんの話?」

「なんでもさ」

「そう。日頃のお礼も兼ねてね」

「仕事だから当たり前だよ。どうしたんだ……」

彼女は私を見据えて言った。

「話したいことがあるから」

 

 

 

仕事から帰り、諸々の手続きを済ませる。頭に靄がかかったみたいに気だるかった。ユーヤに絡まれるなどしつつ、アキと合流して手身近の開いているレストランに入った。

「最近、死にたくなった?」とアキが言う。

「君もそれを聞くんだ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二つの容器

 私たちは19年前、ひどく病気に罹った。大抵の人はそれを病気とは思わないらしい。だからこの病気は未だに認知されていないみたいだし、正体は分かっていないようだ。

それとは別に私たちは物心ついたときから、二つの容器の中で生きていた。大抵の人はひとつの容器の中で暮らしていて、喜んだり、悲しんだりするみたいだった。二つのうちのひとつは同じように喜んだり、悲しんだりしていた。もう一つの方にはこれといって特筆すべき点は見当たらない。なにも入っていないからだ。がらんどうで、ただ空間が拡がっていた。それで二つ容れ物があれば当然、様々なことが二分されて注がれていくのだが、空っぽの方はなんの反応もしないので──つまりは功利に対する喜びの反応や攻撃に対する苦痛の反応など──が機能しないので、注がれることに意味はなかった(ただし意味がないということには意味があるというように、もうひとつの容器の方で解釈はされていくのだが)。もう片方の容器がそれらの反応を享受するのだが、それは分割して半分にしたものであるから、ひとつの容器を持った人より弱い反応であり、そしてなによりも強度が脆いので、容易にあの心の海に流れ去ってお別れをするのだけど。

 

そのようになった記憶は既に忘却の彼方にあって、とにかく僕はその二つの容器の中で生きることにした、ということになる。(念のために僕そのものが容器であるわけではない、ということをここまで読み進めてくれた人のために書き添えて置きたい。しかしそのように書くと僕そのものとはなにかという問いが呼吸するみたいに引きずり出されて来るのだが、それを話すことの苛立ちや疲労や僕の言語能力の脆弱性がすぐさまに戯れてくるので、結局話すことは出来ないと思うし、この話すことが出来ないという事実自体が僕の気分を削ぐので、どうにもならないみたいだ。もう二つの容器についての、とにかく書きたいと思った部分は書き終えたので、この先の文章にはなんの機能性も文学性も備わらないことだろう。そう書いたところで、特に書きたいことももうなかった。強いて言えば、最近村上春樹を読んでいることを話したいぐらいしかない。『騎士団長殺し』だ。僕が村上春樹を読むのは四作品目だ。その中の二作品はあまり好きだと思えなかったので、もう村上春樹を読むことはないだろうと思ったんだけど、気紛れで手にとった『騎士団長殺し』の冒頭に牽かれるものがあり買った。そうしてあまり期待はしてなかったが、予想以上に僕はこの本にかかりきりになっている。文章が美しいと思った。洗練されていると思った。僕の心境の変化ゆえか、本当に文章がより僕に馴染む形へ変化しているのか、それは分からないけれど、とにかく良いと思った。四冊目なので、村上春樹特有の射精描写やグラデーション状の、境界の薄い、ぼんやりとした文体にも実家のような安心感を覚えつつあった。とにかく楽しんで読んでいるということになる。これもやはり二分された高揚といったように、僕には感じられるのだけど。僕の容れ物はそのようになっているようだ。魂が薄いみたいだと思う。魂に濃い薄いがあるかは、僕には判断出来ないことだが。それが不便かどうかは分からない。ただ、多くの人々には、強く人と結び付きたいように僕には思われた。それに対する共感が僕には得られないので、この世界において、その精神性には欠落感のようなものを覚えざるを得ない、というのが正直なところだ。だからとて解決法はやはり、見当たらない。認知されていない病気の治療法が分からないように、それは自明なことだったし、そもそも解決すべきなのかも分からない。こんな有り様なので、社会府適合者ということにまあなる。不適合と一括りにされても、その中身は千差万別だけれど。社会は人をひとつに要約したがるようだ。実際には、人は要約出来ない。これもやはり自明のことだった。僕に至っては人間への欲求どころか、性欲にさえ無視を決め込まれているのだが。あいつは僕が生まれる前から、僕と共に往くとデオキシリボ核酸と約束していたのに、どうやらデオキシスさんは性欲にドタキャンされたみたいだ。僕が生まれる直前に「ごめん、今日はなしで!」とLINEでも飛ばされたのが目に見える。そのドタキャンひとつで、生物の使命を失ったホモ・サピエンスが産まれることなんか知りもしないで。書類も用意していない口約束みたいなものだったから、どうしようもないとは思う。契約書を書くのはめんどうだが、やはり書くべきなんだなと、反面教師にする他はないと思うしかない。さすがに手を止めようと思う。駄文が駄文しているから。

さよなら。)